感動の運動スキル!(その4)(第182週目)

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感動の運動スキル!(その4)(第182週目)

 セラピストが、患者さんの「生活課題達成の運動スキル獲得」を手伝うためには、運動スキルとは何か、どのように獲得されるか、について学ぶ必要がある。 

 まず「運動スキルとは何か?」という問題だが、従来の医療的リハビリテーション分野での伝統的な考え方は、「運動スキルとは、課題達成の運動を正確に何度も繰り返して経験し、その感覚入力の繰り返しによって頭の中に確立される運動プログラムである」ということだろう。

 一度プログラムとしてできあがるとそれを基に課題達成のための運動が状況に応じて適正に修正されて繰り返されるという訳だ。いわゆる「運動コントロールのプログラム説」だ。

 これはなんとも妙なアイデアである。

 元々人は動物や人の体を観察・研究していろいろな機能を達成する機械を作ってきた。その結果、いろいろな機能を実現する機械が生まれてきた。コンピュータの様な記憶し、判断し、命令する機械も作られた。

 ところが今度は逆に、人の脳を理解するために、コンピュータをそのモデルとして考えるようになってしまった。運動学習とは、憶えるべき運動を何度も繰り返してその動きをプログラムとして脳に蓄え、体を動かすときの指令として使うのだ、と。

 元々人の動きをモデルに作ったロボットだが、今度はそれをモデルとして人の運動を理解しようとしている。これではまるで主客転倒ではないか?

 昔から運動学習分野では、一つの運動を憶え学習するためには何度も何度も莫大に繰り返すことが重要だということはよく知られてきた。しかしながら、もし人が一つの運動を憶えるために莫大な繰り返し練習が必要だとすると、人の脳はとんでもなく低性能のコンピュータということになる。そんなことでは運動学習のためだけに莫大な時間を過ごすことになってしまう。それでは生存競争を生き残れなかったのではないか?

 これに他の方向性を示したのがソ連の運動生理学者のベルンシュタインだ。

 彼は最初労働者の運動技能を研究していたのだが、妙なことに気がついた。熟練した鍛冶屋がハンマーで釘の頭を打つのを観察する。ハンマーは毎回間違いなく釘の頭をヒットする。熟練の技である。しかしその様子を運動分析機で観察してみると、肩の角度や腕、ハンマーの軌跡は毎回微妙にずれていることに気がつく。

 ロボットの腕ではもし肩の動きが1ミリずれると、1メートル先のハンマーは何センチ以上も大きくズレてしまう。

 でもロボットは正確に同じ運動を繰り返すことができるのだ。というのも、体は硬いフレームや腕や関節を持っていてそれぞれの部分の動きはブレや誤差が極端に少ない。一つ一つの部品を見ても、ロボットの部品は軸の回りを回ったり行ったりきたりする自由度1の動きしかしない。それががっちりと組み合わされて動きを生み出すので常に同じ運動を繰り返す訳だ。だからコンピュータのプログラムで毎回同じ運動を生み出しうる訳だ。だからロボットは同じ運動を正確に繰り返す、いや、むしろその一つの運動しかできないのである。

(しかし実際には環境の条件で同じ動きを繰り返さないことも多いとか(^^))

 一方人間の体は、柔軟な筋肉を収縮させて引っ張る力だけで動きをコントロールする。筋はゴムの様に粘性を持つので同じ運動を繰り返すのは難しいのだが、骨の何方向にもこの柔軟な筋肉が付着していてそれらでバランスをとりながら骨をコントロールしていることになる。関節も平面関節や球関節では無限の動き方を靱帯で制限している。しかしそれでも二軸・三軸の動きを生み出すので一つの往復運動しかしない機械とは比べものにならないくらい豊富で多様な動きとなる。

 極端に言えば、コントロールしにくいグニャグニャでルーズな体で、毎回微妙に違う運動を生み出し、それでもなお正確に同じ運動結果を生み出せるようになることが運動学習の本質なのである、とベルンシュタインは指摘したのだ。

 つまり機械と人の運動システムの根本的な作動の違いは、機械は同じ運動しか繰り返せないので同じ結果を生み出すのだが、人は毎回同じ運動は繰り返せないのだが、その毎回異なった運動で同じ結果を生み出していることになる。ここに難しさがあるというわけだ。

 ではどうやってその難しい課題をこなしているのだろうか・・・・? どうです?おもしろくないですか?次回はそれをどうやっているのか、そしてその運動学習がどのように行われているかをもう少し考察して、運動学習の本質に迫ってみましょう(^^) (その5に続く)

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感動の運動スキル!(その3)(第181週目)

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感動の運動スキル!(その3)(第181週目)

 親父との問題解決の経験はその後随分役立った。

 それまでの僕の運動スキルのイメージは、「残された数少ない身体のリソースを効率的に使って課題を達成する」であった。前々回のデュシャンヌ型筋ジストロフィー症の子供のように残り少ない筋力を最大限利用したり、骨靱帯の制限を最大限利用したりといったところだ。

 だからそれまでの僕は身体リソースの改善ばかりに注意が向いていたように思う。筋力が弱ければ筋力を改善、体が硬くなれば柔軟性を改善といった感じだ。何か運動問題が起きれば身体リソースの改善によって課題達成力を改善しようとしたわけだ。

 しかしこれだと必ず壁にぶち当たる。脳卒中片麻痺の方では、麻痺の改善はあまり見られない。麻痺が軽度で急性期なら時間経過とともに軽くなることもあるが、回復期で中度から重度になるとほとんど見られない。

 もちろん動作訓練や筋トレを行うと筋力自体、少しは改善するのだが、生活課題の達成力がそれで改善するわけでもないことを実感する。

 しかし親父との経験は環境リソースの重要さに気づかせてくれた。自分の身体だけでできないとき、あるいはもっと楽に課題達成したければ環境内の様々なものをリソースとして利用すれば良いわけだ。

 たとえば脳卒中片麻痺の重度の患者さんが平行棒を掴んで立位保持ができるようになる。それで両脚間での重心移動、片脚保持の運動課題を行い歩行練習に移行する。

 そうとすると患側下肢が振り出せない。体幹部や健側上下肢に力が入って重心移動を起こそうという動きも見られるが、新品の訓練用の靴は床にピッタリと貼り付いて患側下肢は動きそうもない。

 見ていると新人のセラピストなどは自分の足で蹴って患側下肢を振り出して歩行練習をしている。しかしそれでは患側下肢の振出しの運動スキル学習にはならない。

 僕は親父のおかげで環境リソースの利用をすぐに考えるので、古い靴下の先っぽを切った袋をいつもポケットに入れている。それを患足の靴の先にかぶせてやるわけだ。そうすると摩擦がなくなって小さな力と重心移動で患側下肢が振り出せるようになる。

 そうすると他のセラピストが口を尖らせて問題を指摘してくる。

「靴下を履いて振り出していたのでは、将来的にも靴下なしでは振り出せないのではないか?」

 いや、大丈夫である。最初は靴下なしでは振り出せないが、何度も振り出している間に自身のどの動き方や力の入れ方がより下肢を振り出すかを試行錯誤し、適切な運動スキルを発見し、熟練してくる。アクティブに使われることによって、特に健側下肢や体幹の筋力も上がってくる。患足の振出だが、遠く離れた健側上肢の動きも変化してくる。やはり部分の動きとは言っても全身が参加して動かしているのだ。

 もちろん患者さんにとって、それらが言語化されることはない。運動スキルとは言語化されない運動に関する知能によって発達・熟練するのだ。

 そうしてしばらくすると靴下なしで患側下肢を力強く振り出されるようになる。多くは「分回し」という運動スキルへと発達する。少数の方は「健側下肢の伸び上がり」という運動スキルを発達させる。

 現在は靴下の先ではなく、ホームセンターや百円ショップで手に入るポリプロピレンの板やマジックベルト、紐などを使って「スベラース」という装具に仕立てている。大小作っていろいろな障害の患者さんに使っていただいている。

 こうしてみると、僕達医療的リハビリテーションのセラピストの最初の仕事は主に筋力や柔軟性などの身体リソースの改善や杖やスベラースなどの環境リソースの提供にあるのではないか。つまり運動リソースの豊富化である。

 そうすると患者さんは豊富になった運動リソースの効率的な課題達成のための利用方法、つまり運動スキルを自然に考えていかれるのだ。人は生まれながらの運動問題解決者であるとつくづく思う。

 もちろん運動スキルの獲得についてはセラピストの手伝えることも多い。しかしここでセラピストが「俺が正しい運動スキルを教えてやろう!」などと、とんでもない勘違いをしていると患者さんは大変なことになるのである。

 次回はこの点についてもっと考えてみたいと思う。(その4に続く)

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感動の運動スキル!(その2)(第180週目)

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感動の運動スキル!(その2)(第180週目)

 僕の父は70代の終わり頃に脳梗塞で左片麻痺になった。病院でリハビリを受け、何とか見守りで杖歩行ができるということで退院となった。退院当日、家にある普通のベッドを用意したが、ベッドに横になると起き上がれなかった。

 父は「ここにこうロープをつけてくれ。そしたらそれを引っ張って起きられる」と言ったのでつけてみたが、いざ実際にロープを握ると思ったように上手くはいかなかった。

 次に「手すりをここにつけてくれ。病院ではそれで上手く起きられた」と言う。

 手すりはなかったし、僕はその頃上田法という徒手的療法を習っていたので、まずはそれで体幹部の柔軟性を改善してみた。そうすると体幹の運動範囲や重心移動範囲が広がり特に手すりがなくても独りで起き上がれるようになった。

 最初は1日もすると体が再び硬くなって独りでできなくなる。そこで上田法をまたする。できてはできなくなり、また上田法実施を2週間も繰り返している間に、改善した柔軟性という運動リソースを使い続けて柔軟性が維持されたせいもあるのだろう、またその寝返りから起座のための運動スキルも熟練してきたのだろう、上田法をしなくても常に独りで寝返りからベッドの端座位へと起座できるようになった。

「どうだ、これが運動の専門家たる僕の実力だ。見直したか、親父!」と心の中で自慢したものだ。

 しかし起立はベッドが低かったこともあってなかなか出来ない。起立練習を繰り返せばそのうちにできるかもしれないが、「それまでは立ち上がり用の手すりをおいた方が良いだろう」と言った。専門家らしく偉そうに言った・・・

 親父はしばらく考えていたが、杖をとると握り部分とは反対の杖先を握ると僕に言ったものだ。「そこをどけ!」

 僕はムッとしてその場を離れたのだが、親父は僕のすぐ後ろにあったテレビ台のキャスターに杖の持ち手部分を引っかけて、杖を引っ張り、よいしょと立ち上がって見せた。

「ここよ、ここ!」と親父はニヤリと笑って自分の頭を人差し指で指して見せた。

「頭を使えよ!」とやって見せたわけだ。僕が子供の頃から、将棋などして僕を負かせるといつもそうやって威張っていたものだ!(^^;)

 またどうしても怖がって独りで歩こうとしない。付添がいるという。しかし「手すりがあれば独りで歩ける」という。しかしうちの家は農家の古い造りで、親父の部屋から台所までは和室二間があって、障子になっている。

 「どうしよう、手すりはつけられんなあ」と悩んでいると、親父は「立たせてくれ」という。

 立たせると、いきなり右手で障子をブスリと破いた。そして障子の真ん中にあった太めの骨組みを握ると障子を押しながら歩き始めた。そして「他の障子をのけてくれ」という。一枚の障子を押して歩き、次の部屋の一枚の障子をまた持って歩き始めた。帰りはそれを持って横歩きに歩いて自分の部屋に戻った。

「うーむ」と僕はうなった。「なるほど、親父は患側下肢の支持性に問題があるのではなく、基底面内に重心を保持したりバランスをとったりすることに不安があるので、体重を支えるような頑丈な手すりは必要ないのだ。重心を上手く保持できる程度の支えで十分なのだ」と今なら納得できる。

 親父はCAMRで言う基礎定位障害を持っていたわけだ・・・・ 

 結局、運動問題に関する問題解決では親父の二勝一敗である。(イヤ、勝負ではないのだが(^^;))

 しかも僕の一勝は、親父の体幹部の柔軟性という運動リソースを改善しただけで、寝返りから起座、杖とテレビを使った起立、障子を使った移動と主な運動スキルはほとんど親父が自身で発見し、生み出したものだ。

 それも無理がない。必要で利用可能な運動リソースはなかなか外部から観察してもわからないものだ。言い訳ではないが、特にその頃僕は小児の臨床経験が主だったので経験不足もあったのだろう。

 もちろん親父との経験はその後の僕のセラピスト人生に大いに役立っているのだが、この続きは次回の心なのだ。(その3に続く)

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感動の運動スキル!(その1)(第179週目)

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感動の運動スキル!(その1)(第179週目)

 僕は理学療法士としての経歴を、筋ジストロフィー症の子どもたちの施設から始めた。

 卒業したばかりの僕はカシオのデジタル腕時計(G-SHOCKはまだ影も形もなかった)と角度計、すぐに壊れる巻き尺、そしてすぐにかすれてしまうボールペンを持って意気揚々と職場に向かったものだ。(現在でも巻き尺だけは壊れやすい。頑張れ、巻き尺!(^^;))

 デュシャンヌ型筋ジストロフィー症の子どもたちは四肢の近位部の筋力群の低下が進行していく。進行すると腕や脚を持ち上げたりすることはできなくなる。

 そして四肢の近位部の筋群は重力に逆らって動けないほど弱っているのに、尖足と反張膝、そして体幹を反らして肩甲帯を大きく後ろに引いてバランスを保ちながら歩いている。

 僕はそれを見てたまげたものである。

 弱った筋力では重力に逆らえないので、骨・靱帯の制限を上手く利用して重力に押しつぶされないようなアライメントをとっているわけだ。

 「こんな歩き方、誰が教えたんですか?」

 僕は思わず先輩の理学療法士に聞いたものだ。

 先輩は「誰も教えられない。子どもたち自身が生み出した」と当たり前のように答えた。

 実はこれがその後興味を持つようになった「運動スキル」との最初の衝撃的な出会いだった。

 特に驚いたのは、筋ジスの子どもたちの喧嘩の場面だった。

 ある日、二人の子供達が向き合って喧嘩をしていた。一人が唾を吐きかける。僕は慌てて「やめなさい」と声をかけた。注意された子供はシュンとした。

 しかし吐かれた方の子供は、まず右手を左手で持ち、両手で体の前で祈るように両肘を曲げて、両手を胸の近くまで持ってくる。それから右手の親指を口でくわえている・・・

 「一体何をしているのだ?」と思った。

 彼はその後、口で指をくわえたまま、頭を大きく後方へ反らし、さらに左へ反らしながら右手を顔の右側面に置く。そして右手の指で這うように顔と頭を登らせる・・・僕は見当もつかず、あっけにとられてじっと眺めていた。

 子供は遂に右手を頭の上まで持ってきた。そして体幹を少し後方へ反らせてから頭を前へ振り出すように動かしながら右手を鞭のように相手の頭の上めがけて振り下ろした!唾の仕返しを叩くことで見事にやって見せた。僕は叩かれて泣きじゃくる子供をなだめながら、叱るのも忘れてひどく感動したものだ・・・・

 その当時はまだ運動リソースや運動スキルという言葉は知らなかったので、この子供の創造的な体の使い方を上手く表現することができなかった。ひたすら「ただならぬ何かが行われた!」と思って感動した。

「まるで魔法じゃないか!」と思ったものだ。

 障害を持つとは、身体の筋力や柔軟性、体力、体と環境に関する情報などの運動リソースが貧弱になることである。たとえば脳卒中では麻痺によって、麻痺側の筋力が失われる。そうすると運動リソースを利用して課題達成を行う方法である運動スキルも失われる。結果、それまでできていたことができなくなる。座れなくなる、立てなくなる、歩けなくなる、食べられなくなる・・・

 ただそんな中でも運動システムは、残されたわずかの運動リソースの最大限の利用方法を生み出したりするのである。つまり独創的な運動スキルを生み出して課題を達成するのだ。筋ジスの子どもたちのように支持性を得るために骨・靱帯の制限を利用したりする。

 理学療法士になってからそのような思いもよらない独創的な運動スキルをたくさん見てきた・・・・

 今回のシリーズでは、これまで見てきた様々な運動スキルを思い出して運動スキルというものについて少し考えてみたい。(その2に続く)

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セラピストは失敗から学んでいるか?(その9 最終回)失敗と認知されない失敗(第178週目)

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セラピストは失敗から学んでいるか?


失敗と認知されない失敗(その9 最終回)(第178週目)


 僕達リハビリの仕事は、失敗を繰り返しながら少しずつより良い結果が出るように修正していく仕事である。スポーツやその他の技能、仕事と一緒である。達成するべき課題を明確にして、その課題達成に少しでも近づけるように日々修正していく過程である。


 また常に「達成するべき課題」の適・不適を判断するべきだ。


 「本当にこの課題で良いのか?本当にこの課題達成方法で良いのか?」を日々の臨床の中で自問自答しながら進めていく仕事でもある。僕達の仕事の成功は、失敗の先にしかないのである。僕達の仕事の知識も技術も、日々のそれらの経験を通してしか進歩しない。試行錯誤とフィードバックの繰り返しである。


 これがなければひたすら暗闇に向かってゴルフの球を打つようなものだ。何が良いのか悪いのか分からないまま仕事を進めてしまうことになる。


 そして僕達セラピストが訓練効果のない訓練を続けてしまうことは失敗なのだが、これに気づけないのは以下の理由が考えられる。


 まずそれを失敗と認められないからだ。これは医学界の悪しき伝統かもしれない。人の命や人生を預かる重要な仕事であるから、「失敗は許されない」という理想主義に囚われる。でも元々多様性や個別性の高い困難な仕事なのである。画一的なやり方が通じる訳ではない。失敗するのが当たり前の仕事なのだが、この理想主義のために簡単に失敗を認めなくなるのである。


 2番目は評価のあやふやさである。何を持って訓練効果とするべきかがあやふやのままなのである。また主観的な評価に頼りがちである。それで臨床でのフィードバックがあやふやのまま行われるので、いつまで経っても臨床での判断能力が発達しないのだ。


 そして3番目が、「これさえやっとけば大丈夫」という幻想である。「学校で習ったことだから」とか「この方法はEBMに基づいているからなにも考える必要はない。安心して実施していれば良いのだ」という幻想である。


 こんなことを暢気に言っている人を見ると「僕達の仕事はそんな機械を扱うような単純なものなのか?」と言いたくなる。実際には機械を扱う技術者だって、「そんな単純なものじゃないよ。機械だって多様性と個別性があって教科書通りにはいかないものだ」と言う。だからこれらの幻想を捨てて、日々評価、特に動作レベルの評価を習慣化しておく必要がある。


 たとえば定期的に10メートル歩行の結果を得るようにするといったことだ。こうすることで自分の訓練が一時的な揺らぎを起こしているだけか、持続的な変化を起こしているかがわかってくる。動作レベルの評価は運動リソースと運動スキルの変化をダイレクトに表しているからだ。


 もし持続的変化を目標にしてそれが起きていないなら、訓練内容または課題設定の失敗である。だから課題の修正か訓練を工夫していかなければならないわけだ。たとえ上手くいかなくてもそれが僕達の仕事だ。やるしかない。考えていくしかないのだ。失敗はイヤなものだが、同時に大事な経験であり財産でもある。


 日々の業務で自分の行っていることが上手くいっているのかいないのかに気づけず、流れ作業のように淡々と繰り返しているようでは進歩はないのである。(終わり)


【CAMRの基本テキスト】

西尾 幸敏 著「PT・OTが現場ですぐに使える リハビリのコミュ力」金原出版


【あるある!シリーズの電子書籍】

西尾 幸敏 著「脳卒中あるある!: CAMRの流儀」


【運動システムにダイブ!シリーズの電子書籍】

西尾 幸敏 他著「脳卒中片麻痺の運動システムにダイブせよ!: CAMR誕生の秘密」運動システムにダイブ!シリーズ①


【CAMR入門シリーズの電子書籍】

西尾 幸敏 著「システム論の話をしましょう!」CAMR入門シリーズ①

西尾 幸敏 著「治療方略について考える」CAMR入門シリーズ②

西尾 幸敏 著「正しさ幻想をぶっ飛ばせ!:運動と状況性」CAMR入門シリーズ③

西尾 幸敏 著「正しい歩き方?:俺のウォーキング」CAMR入門シリーズ④

西尾 幸敏 著「リハビリの限界?:セラピストは何をする人?」CAMR入門シリーズ⑤


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セラピストは失敗から学んでいるか?(その8)失敗と認知されない失敗

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セラピストは失敗から学んでいるか?失敗と認知されない失敗(その8)(第177週目)


 さて臨床で患者さんの感想や自分の見たい現象ばかり見るような主観的な評価に頼っていると臨床での判断能力が発達しないだろう、そもそも自分の訓練に効果があるかどうかを考える必要を感じていないかもしれない。だから客観的な評価を習慣的に行う必要がある。


 しかし要素レベルの評価は効果判定には使えない。行為レベルの評価は環境を一定にすれば効果判定に有効である。そしてもう一つ、動作レベルの評価の検討が今回の話である。


 先に述べたように病院内のリハビリとは、限られた環境内でおこなわれる運動リソースの豊富化と運動スキルの多彩化である。そして僕達が目標とする生活課題の達成力の改善は、単純に運動リソース(筋力、柔軟性、身体・環境の情報量、体力など)が増えることとは単純に相関しない。生活課題達成力の改善と相関するのはむしろ運動スキルの多彩化である。とは言え、運動スキルの多彩化は、運動リソースの豊富化なしに達成できないので、運動リソースの豊富化と運動スキルの多彩化は共に必要なことである。


 一方、運動スキルの多彩化を実現するには、多彩な環境、多彩な状況での課題実施が必要となる。病院内の貧弱な環境を思えば、そこにはセラピストなりの様々な工夫が必要ではある。


 話が評価から少しズレたが、動作レベルの評価は直接動作のパフォーマンスを表す評価だ。代表的なものに10メートル歩行検査がある。10メートルを歩く時の歩数、秒数を測るだけで、速度、平均歩幅、歩行率、歩行比などで歩行パフォーマンスの変化を追うことができる。他に10秒間で何回起立できるかとかTugなどもそうだろう。いずれにしても動作レベルのパフォーマンスを客観的数値で表すことができる。


 他に長距離歩行で、歩行距離と時間でパフォーマンスを表せたり、左右への寝返り時間、臥位から起座までの起き上がり時間なども行ったりするが、あまり標準化されていないのが残念だ。これらの歩行、起立、起座、寝返りなどの動作を達成する時間は、結局特定の環境内での特定の動作課題での全身の筋力、柔軟性、体力、身体・環境情報などの運動リソースとそれらの運動リソースをどのように課題達成のために使うかという運動スキルの総合力の変化、つまりパフォーマンスの変化を見ることになる。


 つまり動作レベルの評価は、明らかにリハビリの訓練効果をダイレクトに表していると考えて良いだろう。日々定期的にこれらの動作レベルの評価を用いることで患者さんに対する訓練効果を客観的に評価できるので、変化がなければ自分の訓練内容を見直すきっかけになるだろう。


 ただ残念なのは、現在は動作レベルの評価において客観的な数値データで表すものはとても少ない。標準化されたものは更に少ない。セラピスト各自がそれぞれの患者さんに応じて工夫していく必要があるだろうし、標準化のためにたくさんの研究がこれからも必要だろう。


 また評価についてはまだ考慮するべき点が多い。たとえば「一時的な運動変化と持続的な運動変化」といった問題も検討しなければならないが、今回のテーマからは外れてしまうのでまた次の機会に検討したい。


 次回は最終回、今回のエッセイのまとめである。(その9 最終回へ続く)


【CAMRの基本テキスト】

西尾 幸敏 著「PT・OTが現場ですぐに使える リハビリのコミュ力」金原出版


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セラピストは失敗から学んでいるか?(その7)失敗と認知されない失敗

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 「毎週火曜日に書くぞ!」と決めてから、第176週目に入りました。いつまで続けられるか?(^^;)


セラピストは失敗から学んでいるか?失敗と認知されない失敗(その7)


 行為レベルの評価にはADL検査などがある。これは生活行為がどのレベルでできるかという目安として役立つと考えられるが、これまた誤解を生み出しやすい評価である。よくあるのは「できるADLとしているADL」の問題である。


 「訓練室ではできるが、病棟ではできないのは問題である」と言われたりする。


 だが元々行為レベルは、身体能力のみならず環境や社会・文化的価値観など様々の要素の影響からなる状況から生まれるものである。訓練室での文脈と病棟での文脈は違っているのだから、同一人物の行為が変わっても当たり前である。


 訓練室では当たり前にやっていても、病棟では看護師さんも患者さんに取っての役割が違うし、あるいは患者さん自身が「病棟は休むところ」という価値観を持っていれば、動こうとしないのは当然だ。


 また屋外自立歩行をしているおじいちゃんが退院できないで、車椅子介助のおじいちゃんが退院することがある。家庭生活を行うという行為レベルは、各家庭の価値観や事情によって家庭復帰の条件は変わってくるのが当たり前である。他にも失禁があると「家では介護できない」となる場合もあれば失禁が在宅生活で受け入れられている場合もある。「できることは自分でやらないとダメよ」と言う家族もいれば、「なにも普段の生活で余計に苦労したりするよりは在宅での生活はもっと人生を楽しむべきよ」という家族もいる。


 更に一昔前、訪問リハビリをやっている人達の一部が、「今の病院リハは役に立たない。病院内でトイレ動作などができたというが、在宅ではできない。在宅で一からやり直しである。こんな病院リハはダメだ。在宅でもすぐにできるくらいまでやるべきだ」という批判をしていたことがある。


 これも行為レベルがそれぞれの環境と一体であるということを考えれば少し見当外れの批判であるとわかる。元々病院内リハビリでできることと言うのは、身体リソース(筋力、柔軟性、持久力、身体・環境情報など)を豊富にし、病院内の貧弱な環境リソース(病院では手すり、壁、一部の家具つまりテーブルや椅子など)を利用した動作レベルでの運動スキルを改善することである。


 将来家に帰ったときは、新たに出会ったその環境内での行為レベルの構築をやり直すのが当然である。その環境内でのもっとも適応的な課題達成スキルはその環境内でしか生まれない。課題達成スキルとは身体と環境がカップリングすることだからだ。


 もちろんもともと障害が軽ければ、運動リソースも運動スキルも豊富で多彩なので、ある程度、どんな状況でも適応的に振る舞えるのは当たり前である。これを基にいろいろな患者に当てはめて単純化してしまうのが問題なのである。


 だから病院内のリハビリとは、将来家に帰ったときに必要な課題達成スキルを獲得するためにできるだけ運動リソースを豊富にし、それを基にした運動スキルをできるだけ多彩にして、退院後の準備状態を作ることである。


 だから病院内での訓練効果の評価を考えるなら、訓練効果はその環境内での動作レベルで評価するべきだ。要素レベルの筋力、可動域ではなく動作レベルの評価である。


 また他の環境内での行為レベルの比較は無意味とは言わないが、その違いを考慮しておくべきだ。あるいは動作レベルのADL評価なら、身体能力と与えられた環境との相互作用の中で、安定してくる動作の状態を評価することができる。その同一環境内での課題達成力の変化を追うことができるからだ。


 そうするとこのADL検査は、環境や状況を固定すれば、単一環境での動作レベルを含む行為の変化を追う検査として使える。つまり訓練室なら訓練室だけでの経過を見ることで、家庭なら家庭だけの課題達成力の変化を追うことができる。


 訓練室と家庭でのADLを比較しても、その違いを問題視する理由はとても薄いのである。


 次回は、その動作レベルの変化を追う評価について検討してみたい。(その8に続く)


【CAMRの基本テキスト】

西尾 幸敏 著「PT・OTが現場ですぐに使える リハビリのコミュ力」金原出版


【あるある!シリーズの電子書籍】

西尾 幸敏 著「脳卒中あるある!: CAMRの流儀」


【運動システムにダイブ!シリーズの電子書籍】

西尾 幸敏 他著「脳卒中片麻痺の運動システムにダイブせよ!: CAMR誕生の秘密」運動システムにダイブ!シリーズ①


【CAMR入門シリーズの電子書籍】

西尾 幸敏 著「システム論の話をしましょう!」CAMR入門シリーズ①

西尾 幸敏 著「治療方略について考える」CAMR入門シリーズ②

西尾 幸敏 著「正しさ幻想をぶっ飛ばせ!:運動と状況性」CAMR入門シリーズ③

西尾 幸敏 著「正しい歩き方?:俺のウォーキング」CAMR入門シリーズ④

西尾 幸敏 著「リハビリの限界?:セラピストは何をする人?」CAMR入門シリーズ⑤


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セラピストは失敗から学んでいるか?(その6)失敗と認知されない失敗

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セラピストは失敗から学んでいるか?失敗と認知されない失敗(その6)


 さて、前回までのまとめ。


 臨床で患者さんの感想や自分の見たい現象ばかり見るような主観的な評価に頼っていると臨床での判断能力が発達しないだろう。また、「これさえやっておけば大丈夫」とEBMで言われて、「では何も考えずにこれさえやっていれば良い」と思い込むのは間違っている。リハビリはその患者毎に経験と失敗から学ぶ仕事だからだ。EBMのような一般論を全てに当てはめるのはナンセンスだ。その患者さん毎の評価はしなくてはならない。だから客観的な評価が必要である・・・と言うところまで話が進んだ。


 今回からしばらく僕達の用いる評価について検討しよう。


 僕達、リハビリのセラピストが用いる評価は要素レベル、動作レベル、行為レベルの3つに分けられる。


 要素レベルには、筋力や関節可動域、感覚、痛みなどの検査がある。


 この検査はもともと「全体の振る舞いは個々の要素の振る舞いを調べることで理解できる」とする要素還元論の考え方に基づくものだ。この考え方は現在の科学の主要な考え方でもある。何か問題、たとえば「転倒しやすい」が起きると、全体を個々の要素や部分に分けてそれぞれを調べるのだ。そして問題のある要素と部位、たとえば下肢筋に筋力低下があれば「これが原因で転倒しやすくなっている」と因果の関係を想定するのである。


 もちろんこのような単純な因果の関係が成り立つ場合もある。しかし人の運動システムのような複雑なシステムでは、通常要素レベルの問題と全体の問題との間に必ずしも因果関係が成立するわけではない。筋ジストロフィーの子どもたちは股関節周囲の筋力が重力に逆らえないくらい弱くても、骨・靱帯の制限を利用する骨靭帯方略によって歩くことができる。肩回りの筋力は弱くても、拳を頭の上まで持ちあげ、振り下ろして相手の頭を叩いて喧嘩することもできる。96歳のおじいちゃんで、片脚立ちはできなくても立ったまま靴下を履くこともできる。 


 要は人の運動システムでは、筋力や可動域のような要素レベルだけでは動作レベルの問題を説明できないことは多々あるのである。なぜなら人の動作レベルは筋力や柔軟性などの要素、つまり運動リソースだけではなく、それらの利用方法である運動スキルによっても成り立つからだ。


 筋ジスの子どもたちも96歳のおじいちゃんも、筋力という運動リソースの不足を運動スキルの発達によって補うことができるからだ。つまり元々要素レベルの評価は、全体の問題の原因を要素レベルに探るための評価なのである。僕達の訓練効果を表す評価としては不適ではないか。


 というのも「筋力や可動域が改善したので訓練効果があった」というセラピストもいるのだが、元々僕達の仕事はそういった要素を改善するのが目的の仕事ではない。


 僕達の仕事の目的が身体の部分や要素などの改善だけにあるとすると、とても寂しい話だ。機械の修理で言うなら、「ギアが壊れていたから交換しました。ええっ?まともに動かない?それは僕には関係のないことです。僕の仕事は壊れた部品を直したり、交換することですから」と言っているようなものだ。とても一人前の修理工とは言えないだろう。可動域が改善したから「訓練効果が出ました」などと言っているようではやはり仕事は任せられない。


 痛みの治療だって同じだ。動作レベルの問題が変わらないなら、「楽になりました」とセラピストに気を使って言っているだけかもしれない。


 つまり要素レベルの評価はそもそもが、訓練効果の判定のためにメインで使える評価ではないのである。効果判定のためには、リソースの変化はもちろんスキルの変化を含む評価が必要なのである。


 次は行為レベルの評価であるADL検査について検討しよう。(その7)


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セラピストは失敗から学んでいるか?(その5)失敗と認知されない失敗

目安時間:約 5分

セラピストは失敗から学んでいるか?失敗と認知されない失敗(その5)


 さて前回は、「学校でも習ったし、本にも載っていたし、EBMでも裏付けられている。だから、このアプローチで良いのだ!」などという特定のアプローチに対する幻想を持ってやっているのではないか、ということを述べた。


 「そのアプローチで良い」という幻想を持っているのでその結果、訓練実施に当たってそれは失敗とは考えないし、フィードバックも必要としていないのではないか。


 リハビリの中でも、特に脳性運動障害はやはり複雑であやふやで明確に説明されない現象が多く、セラピストも何をどうやったらよいか不安なのである。だからリハビリの権威や「EBMでは・・・」などという下りに弱いのである。


 「ああ、これをやっておけば、自分の義務を果たせるらしいぞ。これで安心!」などという心の動きが生まれるのではないか。しかも盲目的に従ってしまうので、自分で変化を判断できなくなるのだろう。あるいは、ありのままを見るのではなく、見たいものだけを見るようになってしまうのではないか。


 こうなると自分のやっていることは失敗ではなくなってしまう。権威者や一論文の言うままにやっているのであって、悪いのは自分でなく、他の誰かさんである。だから自分のせいではない。権威のある人達のアイデアに従っているので、暢気にもまさか失敗しているとも思わない。


 これでは自分のやっていることの修正ができないのが当たり前である。先にも述べた通り僕達の仕事は多様性や個別性に富む運動システムを相手にしている仕事である。当然失敗はつきものだ。順調に全てがうまく進むことはあり得ない。


 もちろんEBM自体は価値のあるものだし、目安にはなると思う。だからといって自ら効果判定に関する判断を止めてしまって良いということにはならない。


 僕達セラピストの仕事の成功は失敗の先にある。日々の仕事は失敗の連続であって、それを活かしてこそ、その先に漸く数少ない成功を得るのが普通である。だからEBMや権威ある人達の言うことを盾にとって、「それが正しい」などという幻想を持つのは間違っているし、自ら訓練効果の判断を止めて盲目的にその方法を実施するのはもっての他だ。


 EBMは聖書ではない。手続きの基準であり、そして批判の対象でもある。


 科学は批判によって進化する体系である。EBMに盲従し、何も考えなくて良いと言うことではない。そのために各個人で客観的な評価の重要性を知って実施するべきだ。


 次回はこの客観的な評価について検討してみたい。(その6に続く)


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セラピストは失敗から学んでいるか?(その4)失敗と認知されない失敗

目安時間:約 6分

セラピストは失敗から学んでいるか?失敗と認知されない失敗(その4)


 「訓練効果が見られないまま同じ訓練を続ける」場合は、次のような理由もあると思う。それは以下のような強い思い込みである。


 たとえば「○○というアプローチをすれば、脳性運動障害は改善するものだ」という信念というよりは幻想があるのだ。「学校や講習会で教えられたから」という理由だったりする。あるいは「EBMで客観的な効果判定が証明されている。だから間違いない。これさえやっとけば大丈夫!」という安易で、暢気な強い思い込みがあるのではないか。


 リハビリの世界ではこのような「思い込み」が意外に多いのである。


 ずっと以前は「脳性運動障害後には体が硬くなる痙性麻痺が見られるが、この痙性麻痺が随意運動の出現を邪魔している。だから硬さを改善すれば、随意運動が自然に出てくる」と科学的根拠もないままに言われ、信じられていたものだ。


 実際には硬さを落としても、重度麻痺では低緊張や筋力低下が露わになる。軽度~中等度では、硬さが取れると柔軟性という運動リソースが改善し、筋の硬さによる抵抗がなくなるので動きがスムースになったり運動や重心の移動範囲が大きくなったりする。これをまるで脳性運動障害そのものを改善していると勘違いする場合もある。実際には麻痺による低緊張状態を解決するために運動システムが採った外骨格系方略だし、その偽解決状態となった硬い状態によって低下している運動パフォーマンスを改善しているので、脳性運動障害を直接改善しているわけではない。


 また「運動の不正確さは深部感覚の低下が原因である。だから深部感覚の訓練をして、深感覚を改善する必要がある」という例もある。しかし、運動の不正確さも深部感覚の低下もたとえば脊髄細胞が壊れたことが原因である。因果の関係を間違えているのである。因果の関係なら、運動と深部感覚低下の両方の原因である壊れた脊髄細胞を構造的に再生するしかない。しかし今のところ、リハビリでは不可能である。さらに脳卒中後に「歩行が不安定なのは立ち直り能力の低下である」と言って、座位で立ち直りの訓練を行うのも間違った思い込みである。歩行が不安定なのも立ち直り能力が低下しているのも、脳の細胞が壊れたことが原因である。


 正しく因果の関係を採るなら、「壊れて失われた脳の機能を構造的・機能的に再生する」ということになる。これまた今のところリハビリでは不可能である。


 最近聞いたところでは、「脳卒中後に早くから歩行することはEBMで訓練効果が認められている。アクティブに運動をすると、脳の血流が増えて、壊れた脳細胞が再生しやすいのだろう」と発言しているセラピストに出会った。本当にそうなのか?目の前で起きている現象もそれを表しているのか?


 しかし頭からそれを信じている様子で全身麻痺で動きのない患者さんを二人がかりで立たせて歩かせる訓練を日々繰り返していた。結果、日々体が硬くなっただけだ。家族は以前、右の手脚はもっと動いていたのに、最近では全身が硬くなってほとんど動かなくなったと思う、と不安を持たれていたのだが。


 まあ、昔から医学界にはこのような幻想がつきもののようだ。中には運良く結果がよかったりすることもあるのでこの風習の様なものは止まないのではないか。早い話、「これさえやっとけば大丈夫。学校でも習ったし、本にも載っていたし、EBMの後ろ盾もある。だから、このアプローチで正しいのだ!」などという幻想を持ってやっているので訓練実施に当たって、フィードバックや効果判定を必要としていないのではないかと思われる。あるいは自分の見たいものだけを見て、「この変化もこの訓練のおかげ」などと信じているのではないだろうか?


 目の前の現象がいくらでもあるのに、まったく自分で見て、判断しようとしないのだ。(その5に続く)


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