「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること?」(その2)

目安時間:約 5分

 今回は、まず簡単に学校で習う運動システムのことを説明します。

 学校で習う人の運動システムでは、人を構造と各器官の働きで理解します。筋肉は力を生み出し、骨と関節は生まれた力に支持と方向性を与えます。感覚神経は感覚を中枢に伝え、運動神経は脳の命令を各身体部位の筋肉に伝えます・・といった感じです。

 この理解の仕方は、人の体を機械のように理解することです。たとえば歩く時に片脚を振り出すのは、その片脚の股関節を屈曲させる筋肉を働かせるので脚が振り出されると理解できます。それはそれで有意義です。セラピストにとっては非常に役に立つ視点です。

 ただ人の体をあまりに機械のように理解してしまうと変な誤解も起きます。 たとえば股関節を屈曲させるのは「股関節の屈筋である」と理解すると、「股関節の屈筋を働かせて脚を振り出すのが正しいやり方である」などと思い込んでしまいます。

 そして股関節の屈曲が麻痺で働かなくなる人がいます。そのやり方では脚が振り出せません。普通麻痺で股関節の屈曲の筋が働かないなら、健側の軸足を中心に体幹を回旋させて、麻痺の脚を振り出すことができます。いわゆる「ぶん回し」の歩行です。

 そうするとセラピストはその振り出し方を「代償運動である。異常歩行である!」と決めつけます。健常者の平地の標準的な歩き方ではないからです。そして異常歩行だから「正しい歩行を学ぶ必要がある。正しい歩行を繰り返して脳に憶えさせるのだ」という理屈が展開されるわけです。こうしてひたすら正しいとする一つの歩き方を長い間に渡って繰り返すことになったりします。

 でもいつも疑問に思うのです。「麻痺のある体で健常者と同じような歩き方ができるのか?それにそもそも健常者と同じように歩かないといけないのか?」それに麻痺があるのが原因なのだから、「まず医療が麻痺を治すべきだが、麻痺も治せないのになぜそんな無理な要求をするのか?」と。

 機械には確かに「正しい運動」があります。設計者が意図したとおりの運動です。人を機械と見ていると、健常な標準的な動きが正しい運動で、「正しい運動をしていないので正しい運動を憶えることが治すこと」と考えてしまうのかもしれません。

 さらに欧米の医療に関する思想には、デカルト以来の「人間機械論」という思想が根底に流れていると言います。何かというと「人は神が作った機械である」という考え方です。だから「神の意図した通りの普通の歩き方が正しいのだ」ということなのでしょう。

 でも人は機械ではありません。人は状況によって運動の形ややり方を無限に変化させて、適切な運動を生み出すものです。

 健常者が歩くということを考えてみましょう。平地を普通に歩いていても、氷の上では小股でヨチヨチと歩きます。狭い通路は横向きで歩きます。きつい斜面を登るときは両手も使います。水溜まりでは濡れないようにつま先立ちで歩きます。つま先で歩くのはリハビリでは「尖足歩行」と呼び、健常な形ではないとされます。でも健常者は必要に応じて普通に尖足歩行をします。田んぼを歩く時は泥から足を抜く時に下垂足の形で抜き、膝も高く挙げます。これはリハビリでは「鶏歩」という異常歩行の形です。これまた健常者は必要に応じて適応的にそれで歩きます。

 もし「正しい歩き方」があるとすれば、「健常者の標準的な『形』の歩き方」ではなく、「状況変化に応じて適応的に形ややり方を変えてできるだけ安全、効率的なその人らしい歩き方」ということになるのです。

 実際に世の中の環境や状況は無限に変化しますので、適応的に歩行を維持するためには歩行の形ややり方も無限に変化する必要があります。実際、人の運動システムは「無限の状況変化に応じて運動を無限に変化させて、できるだけ適応的に課題達成しようとする」という作動の特徴を持っているのです。CAMRではこの作動上の特徴を「状況性」と呼んでいます。

 だから麻痺になったとしても麻痺があるなりに適応的に自分なりの歩き方を見つけて歩くのが自然のことなのです。「異常歩行」などというのは、努力する患者さんに失礼な言い方です。

 そして「たった一つの正しいとされる運動の形を憶えて、それを再現する」やり方は、人の運動システムの「状況性」という作動上の特徴に全く相応しくないやり方なのです。 次回は「状況性」を基に、「CAMRではどのようなリハビリを行うか」について考えてみたいと思います。(その3に続く)

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「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること」?(その1) 

目安時間:約 5分

「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること」?(その1) 

 セラピストが患者さんの体を触り、動きを導いています。 「良いですね!もう一度動かしてみましょう・・・良いですね!」などとセラピストが言います。そうやって患者さんは何度もその動きを繰り返します。

 運動の内容は患側下肢の振り出しだったり、立ち直り反応だったりと色々です。手のリーチのやり方なんてのもあります。いずれにしても見た目の形ややり方を触ったり言葉で導いてそれを繰り返します。

 よく見る光景ですよね。

 いかにもセラピストが「運動のやり方」を教えている感じです。きっと周りの人も、「セラピストが患者さんにやり方を教えているのだろう」と思うのでしょう。

 ここでは患側下肢の振り出し方を教えているとしましょう。そしてセラピストの指導する振り出し方で歩かれます。その後、訓練室を出て患者さんが独りで歩き始めると、また結局元の歩き方に戻ってしまいます。セラピストが手を添えて指導し、見つめてフィードバックしているときの教えた動きは消えてしまいます。

 人の運動システムにとっては、安全で効率的な動きが選択されることが自然です。セラピストの指導する動きは、できたとしても効率的ではないので選ばれないのでしょう。自然のことです。

 どうしてセラピストは、患者さん一人では再現されないそのやり方を指導するのでしょうか?しかも時として、変化なしに何年にも渡ってそれを指導しているセラピストもいます。

 セラピスト、あるいは患者さんの思う理想の歩き方を目指しているのでしょうか? たとえ患者さんの運動システムにとって効率的ではなくても、何度も同じ運動を繰り返せば、やがて脳内にその運動を実施するプログラムが作られて自然に「できるようになる」と信じているのでしょうか。

 ただ疑問なのは、「人の脳はそんな単純なことをやっているのか?」ということです。つまり「一つの運動の形ややり方を繰り返して憶えて、それを再現する」という単純なことをやっているのか、ということです。

 たとえばこれは小学校の運動会で行進の練習をするようなものです。実際に行進の場面になると皆胸を張って腕や脚を大きく振って歩きます。運動会の行進ではこれが正解の歩き方だからです。繰り返し練習して、子どもたちは適応的に歩きますので練習の効果があったと言えます。

 でも普段子どもたちはそれぞれに個性的な歩容で歩いています。誰も胸を張って手脚を大きく振って歩いたりしていません。状況に合わせて適応的に歩き方や歩容を変化させて歩いています。自然のことです。

 実際に患者さんもそうで、リハビリ場面ではセラピストの要求する歩き方で歩くことが適応的なのです。でも訓練室を出て、独りで歩くときには自分らしい歩き方で歩くことが自然なのです。患者さんの運動システムは、常に患者さんにとって一番安全で効率的な歩き方を選択するからです。

 世の中の環境や状況は変化に富んでいます。人の運動システムはその状況の変化に応じて歩行を適応的に維持するために、もっとも相応しい歩行スキルを生み出して、調整し、適応しているのです。

 だからたった一つの歩き方を正解として繰り返し、再現する練習をしてもあまり意味がないのです。(全く意味がないわけでもないのですが・・) 運動学習で必要なのは、世の中で出会う様々な状況変化に対応して適応的な運動スキルを生み出して必要な課題を達成する術(すべ)を学ぶことにあります。

 CAMRでは、実際の生活で必要な生活課題を達成するのは、柔軟で実用的な「運動スキル」と考えます。それで従来考えられていたような運動の形ややり方を繰り返す「運動学習」とは区別するためにわざわざ「運動スキル学習」と呼んでいます。

 今回のシリーズでは、CAMRの考える「運動スキル学習」についての説明や検討をしたいと思います。(その2に続く)

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CAMR無料勉強会のおしらせ(広島市2025年12月)

目安時間:約 4分

CAMR無料勉強会のおしらせ(広島市2025年12月)
 約1世紀前に、英国の神経生理学者のJacksonは、脳性運動障害後に見られる筋の硬さを「伸張反射の亢進状態」と説明しました。これはspasticity(痙性あるいは痙直)と呼ばれます。そして現在も臨床では、脳性運動障害後の筋の硬さは「痙性による硬さ」spastic stiffnessと信じられています。
 脳性運動障害後の筋の硬さは、上位脳が壊れたことによる「症状」としてこの1世紀の間信じられてきたわけですね。もちろん中枢神経系が傷害されたので、壊れた中枢神経系でその後の現象を説明したくなるのももっともです(^^)
 でも本当にそうなのでしょうか?伸張反射は見た目にも触っても活動的で、持続時間は短く、手で押さえ込めるくらい弱いものです。しかし臨床で見られる筋の硬さは、見た目も触っても活動性がなく静的で、長時間持続し、手で動かそうとしてもガチッと止まるようなまるで拘縮のような硬さです。
 それで「これは拘縮ではないか」と思っていると、お風呂に入ったり上田法という徒手療法を実施したりするとすぐに柔らかくなります。それで拘縮ではなく「静的な収縮状態」であると分かるわけです。
 この弱くて活動的な伸張反射の収縮が、どうして拘縮のような「非活動的で持続的な強い硬さ」になるのか納得のいく理由が分かりませんよね。もしかしたらJacksonの言っていることは間違っているかも?つまり脳性運動障害の理解の仕方は、間違っているかも!
 CAMR(Contextual Approach for Medical Rehabilitation「医療的リハビリテーションのための状況的アプローチ」カムルと呼びます)では、もっと納得のできる説明で脳性運動障害を理解できます。システム論を基にした日本生まれの理論です。
 CAMRによると脳性運動障害後に見られる筋の硬さは、spastic stiffnessではなくviscoelastic stiffness「粘弾性の硬さ」になります。そうするとこれまでJacksonの説明でみられた矛盾がなくなるのです。
 その新しい理解から、新しいアプローチが生み出されました。とは言っても、やり手のセラピストが経験的に生み出したアプローチと共通点も多いのですがね(^^;))おそらく経験的・直感的にも納得のできるやり方なのだと思います。
 あなたも現在のやり方に満足がいっていないのなら、CAMRを学んでみませんか?
《CAMR無料勉強会の詳細》
日時:2025年12月14日(日曜日)9時30分~13時00分まで
場所:広島市アステールプラザ 小会議室2 
(受付横のエレベータに乗って4階で降りてすぐの部屋)
 内容:CAMR理論に加え、患者さんの動画を用いて、症状や動作の分析、アプローチの効果などが理解できます。
 申込み:氏名・職種・経験年数を記入。以下の◎をアットマークに変えてメールしてください。
camrworkshop◎mbr.nifty.com
※飲み物は各自持参してください。小さなお菓子は用意しています(^^)

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異常歩行は誰の問題?その3

目安時間:約 4分

異常歩行は誰の問題?その3 

 前回は人の運動システムの作動の特徴の一つ、「状況性」からぶん回し歩行を考察してみた。片麻痺患者さんは半身に弛緩性麻痺が生じるという状況変化に対応して、歩くためにぶん回し歩行という新しい歩行スキルを生み出して歩行の機能を獲得・維持しているので、状況性という作動の特徴は失っておられない、と説明した。

 今回はもう一つの運動システムの作動の特徴である「自律性」について説明したい。

 人の運動システムには、その人にとって必要な運動課題を自律的に達成しようとする作動がある。「自律的課題達成」という作動である。

 たとえばお腹が空くと自然に食べ物を探したりする。町中を歩いている時、お腹が空いていない時は興味のあるものに自然に注意が向くが、一旦お腹が空いてくると自然に食事処の看板に注意が向く。また何か正体不明の危険が迫っていると感じたときには、体が自然に逃げる体勢をとるし、どんな危険かに興味があると逆に留まってその正体を探索しようとする。

 一方、腓骨神経麻痺になると下垂足になり普通に歩こうとするとつま先が床に引っかかって危険なので自然に膝を高く挙げてつま先が床に触れないように鶏歩という歩行スキルを生み出して問題解決を図る。腰痛ヘルニアになると、動くと疼痛が生じるので脊柱は逃避性の側彎が生じ、体幹の筋肉を収縮して固めてできるだけ痛みが出ないように一体になって動く。失調症では、重力と床の間で上手く体をコントロールできないという問題(基礎定位障害)が生じてバランスを崩しやすくなるので、スタンスを広くとって基底面を広げて倒れにくくするという問題解決を図る。

 いずれも本人の意識とは関係なく、運動システムが課題達成のために自律的に問題解決の作動を起こす。これを「自律的問題解決」と呼ぶ。そして「自律的課題達成の作動」と「自律的問題解決の作動」の二つの作動を合わせて「自律性」と呼ぶ。

 だから片麻痺患者さんでも弛緩性麻痺で患側下肢が振り出せないので、健側の上下肢体幹を中心にぶん回し歩行という歩行スキルを自律的に生み出して問題を解決して歩行という課題を達成しようとするわけだ。

 従って脳卒中片麻痺患者さんでは「状況性」と「自律性」という両方の作動の特徴が失われていないことが分かる。

 こうしてCAMRの視点から見ると、患者さんは生まれながらの「運動問題解決者」であり「運動課題達成者」なのである。

 私たちはセラピストの立場から患者さんの歩行を「異常歩行」だとか「正常歩行」などと評価しているが、患者さんにとってはどうでもよいこと、余計なお世話でもある。特に「異常」などという言葉は害ばかりあって一利もない。患者さんは異常歩行という悪い歩行を生み出しているのではなく、「状況変化に応じて課題達成のための新たな歩行スキル」を努力して生み出しておられるだけである。

 またセラピストの教育においても害がある。異常歩行といわれると、セラピストは「悪い歩行の形だから矯正しないといけない」と単純に思い込んでしまう。実は僕も若い頃そう思っていた。そうして、生み出された歩行スキルの意味や価値などは考えずに、ひたすら「矯正しよう、治そう」と努力しては失敗してしまう。挙げ句の果てに自分がまだ未熟だからと自分を責めたり、患者さんにやる気がないなどと患者さんのせいにしたりしているのをたくさん見てきた。

 麻痺のある体でなんとか適応的に歩くために、患者さんが生み出したのがぶん回しの歩行スキルである。できれば学校教育の中から「異常歩行(運動)」という間違った、悪いイメージを伴う用語は使わないようにした方が良いと思っている。

 次回はこのシリーズのまとめです。(その4に続く)

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異常歩行は誰の問題?その2

目安時間:約 4分

異常歩行は誰の問題?その2

 前回も述べたように、そもそも見た目の形ややり方が正常歩行から逸脱しているだけで、「異常」だと言ってしまうのは問題である。というのも「異常」という日本語としても非常に強い否定的、悪い意味の「ラベル」を貼ることになるから。

 今回は患者さんの生み出した歩行、たとえば「ぶん回し歩行」は、実は正常な歩行の一種ではないか、と提案したいと思う。

 そこでまずは健康な若者の歩行を観察してみよう。若者は明るく広い廊下を普通に歩いている。しかし真っ暗闇の中では両手を前に、そして片脚も前に出して彷徨(さまよ)わせて障害物を探しながら少しずつ進む。

 人混みの中では、横向きに歩いて狭い隙間を進んだり、前から迫ってくる人を後に下がって横向きになり進路を譲ったりする。

 健康な若者とは言え、いつも同じように歩いているわけではない。大好きな恋人に振られた直後は、背中を丸めて両肩を落としトボトボと歩く。逆に良いことがあると弾むように歩いたりする。前から怖い犬が来ると緊張してぎこちなくなる。

 丸太の一本橋では両手を広げてバランスをとりながら横向きに、あるいは正面から綱渡りのように進む。

 凍っている路面では、背中を丸めて足下を見ながら滑らないようにヨチヨチと進む。自然に両手がほんの少し前に出てバランスをとる。パーキンソン病の歩行の形にも似ている。

 浅いが広い水溜まりがあれば、靴が濡れないようにつま先立ちになり、浅いところを探しながらつま先立ちで歩く。これは尖足歩行の形である。

 田んぼの中を進むときは、片脚を泥から引き抜くのにやはり尖足の形になる。背屈位では泥から引き抜くときの抵抗が大きいからだ。さらにつま先まで泥から引き抜くために膝を高く挙げることになる。これは腓骨神経麻痺で下垂足があるときの鶏歩の形である。

 若者の片脚に重い重垂ベルトを巻くと、最初は脚の力でまっすぐに振り出すが、やがて疲れるので体全体で振り出すようになる。これは片麻痺患者さんのぶん回し歩行に似ている・・・・ どうだろう、こうして見ると健康な若者は、環境や状況の変化に応じて歩行の形ややり方を適応的に変化させている。環境や状況の変化は無限にあるので、若者の歩行の形も無限に変化する訳だ。健常な若者の歩行なので全ての形が正常歩行と言えそうだ。

 学校の教科書では、見た目で若者の平地での標準的な形を正常歩行と決めている。

 一方CAMRでは、人の運動システムの作動の特徴に焦点を合わせる。そうすると上述のように人の運動システムには、「環境や状況の変化に応じて、形ややり方を変えて、 適応的に歩行の機能を生み出し、維持する」作動の特徴があることが分かる。

 この作動の特徴はCAMRでは「状況性」と名づけられている。つまり正常歩行とは、歩行の形ややり方ではなく、「状況性」という作動の特徴を示しているかどうかである。

 そうすると片麻痺患者さんは「半身に麻痺が起こるという状況変化の中で、『ぶん回し歩行』という歩行スキルを生み出して適応的に課題を達成するという状況性」を示しているとも言えるので、ぶん回し歩行はCAMRの定義では正常歩行の一種と言える訳だ。

 次回はもう一つの作動の特徴からぶん回し歩行を評価してみようと思う。(その3に続く)

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異常歩行は誰の問題?その1

目安時間:約 4分

異常歩行は誰の問題? その1

 異常歩行は、正常な歩行の形やパターンから逸脱した歩行のことらしい。歩容(歩行の形)が左右非対象であるとか、歩隔(足と足の間)が広いとか、ふらついているとか、足の振り出し方が違うなどがその例となる。
 では正常な歩行の形やパターンとはなんだろうか?どうも教科書を見ると、健康な若者が颯爽と歩いている時の歩行の形が正常歩行として挙げられているようだ。どうも僕のように猫背でポケットに手を突っ込んでダラダラとすり足で歩いていると「正常歩行」と認められないらしい(^^;)だから僕も異常歩行をしている?
 もちろん身体の異常や問題は歩行の形にも表れるので、歩行の形ややり方を標準的な歩行の形と比べること自体は有意義であることに間違いない。
 だがそもそも見た目の形ややり方が正常歩行から逸脱しているだけで、「異常」だと言ってしまうのは問題である。というのも「異常」という日本語としても非常に強い否定的、悪い意味の「ラベル」を貼ることになるから。
 考えてみてほしい。片麻痺の患者さんは障害直後から半身に弛緩麻痺があり、思うように動けない。それでも試行錯誤して自分なりに歩くためのやり方を身につけられたわけだ。汗と努力の結晶と言っても良いものだ。
 だがセラピストから「それは異常な歩行ですね。治しましょう」などと言われたらどんな気持ちになるだろうか?かなりやるせないと思う。そんな場面を何度か見てきた。もちろん「異常」という強い言葉を簡単に口にするセラピストはそんなにはいないだろうとは思っている。
 ただセラピストにとっても「異常」という言葉の影響は大きい。なんだか無条件に「修正、あるいは矯正しないといけない」と思ってしまうのではないか。
 実は僕自身がそうだった。このことはいろんなところで書いてきたが、初めての実習に出たときの今から40年以上も前の話である。
 ある片麻痺のおじいちゃんを担当することになった。初めての実習生にとっては何もかもが不安である。何をするべきかも分からない。霧の中を手探りで進むようなものだ。
 でもそのおじいちゃんは典型的なぶん回し歩行をされていたので、僕はすぐそれに跳び付いてしまった。心の中で「異常なパターンだからそれを治すべきだ」とやるべきことが見つかって安心したものだ。
 それで早速、「脚はできるだけまっすぐに出してみましょう」と偉そうに指示をする。「よしっ!」とおじいちゃんはまっすぐに出そうとするがその努力は1回で終わって、元のぶん回しに戻ってしまう。結局、これを何度も繰り返してしまうことになる。
 普段はとても優しくて気の良いおじいちゃんだった。僕はそこに甘えていたのだろう。
 そしてある日、ついに突然おじいちゃんが立ち止まり、僕に向かって怒鳴ったものだ。「よーし、分かった!お前の言う通りにしちゃろう!じゃが、その前にわしの脚を治せ!やれと言われてもできんのんじゃ!治ったらいくらでもお前の言う通りにしちゃるわい!」と大きな声で怒鳴られた・・・
 全く言われる通りで、ぐうの音も出なかった。それにそもそも指示しただけでできるものなら誰も苦労はしないわけだ。(これがきっかけで僕はその当時、「麻痺を治す」ことを主張するアプローチにしばらくの間向かうことになるのだが、まあ、それは別の話)
 ともかくそのおじいちゃんに怒られたおかげで、僕はその後ずっとこの件について考えることになったのです。(その2に続く)

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患者さんの振る舞いを観察すること その3(最終回)

目安時間:約 4分

 CAMRでは、健常者や障害者の運動の振る舞いを観察することで、人の運動システムの作動の特徴を明らかにすることを目指してきました。
 前回説明したように「状況性」という作動の特徴は、豊富な運動リソースと多彩で柔軟な運動スキルを生み出す構造によって支えられています。障害を持つということは身体リソースを失ったり貧弱になったりすることです。そうすると利用可能な環境リソースも貧弱になり、それらを利用する運動スキルも貧弱になります。そうすると「必要な様々な生活課題を達成できなくなる」ことが障害を持つと言うことです。
 だからリハビリでは、身体リソースをできるだけ豊富にすること、環境リソースを工夫しできるだけ増やすこと、そしてそれらの運動リソースを用いて必要な生活課題達成するための運動スキル学習がリハビリで行う基本的な方針だと説明しました。そしてこれはどんな障害でも関係なく、同じ方針でアプローチします。
 どんな障害であれ、運動リソースが貧弱になり、運動スキルも貧弱になって生活課題達成力が低下あるいは失われるからです。
 もちろん障害毎に運動リソースの増やし方や運動スキル学習の進め方に違いは出てきます。特に脳性運動障害では、弛緩性の麻痺の程度や範囲が広いため、患者さん自身の自律的な問題解決の作動が多く見られます。
 従来の学校教育では、人の運動システムを構造と各器官の働きから理解するという、機械と同じ視点で理解します。機械はもちろん故障が起きても、自分でなんとかしようとはしません。そのため人の運動システムで障害が起きた時に、システム自身の作動で問題解決を図っているなどということは想像もできないのでしょう。だから障害後の現象を全て「症状」として捉えてしまう傾向があるのだと思います。
 でも生物では、問題が起きるとそれを何とか解決して必要な課題を達成する、そして生存のための問題解決をできる範囲で図ることは当たり前のことです。生物ができることをしないでただ死を待つなんて考えられません。この生物としての活き活きとした運動システムの作動を理解していないのが現状の学校教育の問題点です。
 たとえば頸椎の伸展に関する筋肉は23対あります。頸を伸展するのにどうしてそれだけの筋肉が必要なのかは構造と各器官の働きからでは理解できないのです。たとえば肘の運動を屈曲・伸展だけで理解するならロボットの様に屈筋・伸筋が一つずつだけあれば良いのです。側屈や回旋が同時に起こるなら、それぞれに一対あれば良さそうなものです。でも実際に頸部の運動は、無限の状況変化の中で、体幹と頸部の無限の動きに応じて適切に頸部の位置を保持するために必要なのだと考えると、決してそれは多すぎるとは言えないわけです。
 また平面関節の動きは無限に生じうるのです。自由度2の関節、平面上で一点をとる可能性は無限にあるからです。人の関節はほとんど自由度2か3の関節です。つまりこれだけでも無限の動きを生み出すわけです。機械のようにほとんどが自由度1の動き(直線上を往復するあるいは軸の回りを回転する等)だけで構成されているわけではありません。
 まあ僕の言いたいことは、構造と各器官の機能というロボットを見るような視点だけで人の運動システムを理解しても、人を機械として理解しているだけです。活き活きと活動する生物としての運動システムの視点が欠けています。その点、作動の特徴から理解すると生物としての運動システムがより活き活きと理解できるようになります。
 ごめんなさい、まだ十分に表現できていないですね(^^;)もう少し寝かせてからもう一度書き直してみます。(おしまい)

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患者さんの振る舞いを観察すること その2

目安時間:約 4分

患者さんの振る舞いを観察すること その2 

 前回は、患者さんの起立時の振る舞いから「人の運動システムは、必要な運動課題を達成するために、身体の内外に利用可能なもの(「運動のための資源」=「運動リソース」)を探索する」と運動システムの作動の一部を言語化しました。
 ここで運動リソースという言葉を使ったのは、患者さんは課題達成のために何かを探しては、それを試すような振る舞いをしているように見えたからです。何を探しているのか、ここでは文脈から「運動の資源=運動リソース」と仮定したわけです。
 そうすると運動リソースはあくまでも運動の資源です。筋力や柔軟性が運動リソースになりますが、筋力は結局単なる「力」に過ぎません。どのように利用するかという「課題達成のやり方」である「運動スキル」というアイデアも必要になります。
 そして患者さんが課題達成のために運動リソースを利用した運動スキルを試行錯誤しているのだろうと考えるわけです。
 これはCAMRのオリジナルの考え方ではなく、生態心理学でもリードがリソースとスキルというアイデアを使って人の運動や行動を説明しているのでこれをなぞっています。非常に分かりやすい。構造や各器官の機能の視点とは別の視点から運動システムを説明するための便利なアイデアです。
 この運動リソースと運動スキルのアイデアは、人の運動システムの作動の特徴を説明するのに特に便利です。  
 たとえば人の歩行は、状況に応じて形や歩き方を変化させます。平地では普通に歩いていても、狭い通路は横向きに歩きます。水溜まりではつま先立ちになり、水の浅いところを探しながらひょいひょいと歩きます。寒い冬の朝、凍った路上では背中を丸めてヨチヨチと歩きます。急な坂道を登るときは両手も登る助けに使いますし、漆黒の暗闇では両手を前に伸ばし、片脚を出しては路面を探りながら歩いたりします・・・・
 結局世の中の環境や状況は無限に変化しますし、それに適応して人の運動も無限に変化します。どうして人の運動は無限の状況変化に応じて、適応的に変化することができるのかと問われると、人の運動システムは無限の運動変化を生み出す仕組みを持っているからです。そしてその仕組みとは、人の運動システムは利用可能な運動リソースを豊富に持ち、それらを利用して無限に変化する運動スキルを生み出すことができるからです。
 ではこの視点から、障害を持つということを以下に説明してみましょう。
 運動リソースは身体リソース(身体や身体の持つ性質である筋力や柔軟性など)と環境リソース(環境内の大地や工作物、動物、他人や環境内の持つ性質重力、明るさなど)に分類されます。そして「障害を持つとは、まず身体リソースが失われるあるいは貧弱になることです。そうすると、利用可能な環境リソースが失われる、あるいは貧弱になります。そうするとそれらを利用する運動スキルが消失あるいは貧弱になり、必要な運動課題を達成できなくなること」と説明できます。
 そうすると障害にどうアプローチするかというと、「まずは改善可能な身体リソースをできるだけ改善し、利用可能な環境リソースをできるだけ工夫・改善すること。そしてそれらを利用して必要な運動課題を達成するための運動スキルを生み出し、修正する能力を改善する活動-運動スキル学習を行うこと」という方針が生まれます。
 伝統的にリハビリでは障害毎にアプローチを変えるのが当たり前でしたが、CAMRではどんな障害であれ、「改善できる身体リソースを改善し、利用可能な環境リソースを増やして、それらを利用して運動スキル学習を進めて運動課題達成力を改善すること」がリハビリの仕事ということになります。(その3に続く)

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患者さんの振る舞いを観察すること(その1)

目安時間:約 4分

 脳卒中後初めて車椅子に乗られてリハビリを開始するときのことを考えてみましょう。
 たとえば「立ってみましょう」と声をかけると、健側の上肢で車椅子の肘掛けを持って上体を前方に傾けたり、両脚を置き直したり、お尻をもぞもぞと動かそうとしたり、またまた片手を前方にさまよわせて、「何かつかむものがないか」と探したりされるように見えます。そしてどうもできそうにないと分かるとそれらの試行錯誤を止めて動かなくなられたり、「できない」と言われたりします。
 いずれにしても患者さんは、セラピストの出した運動課題を達成しようとされているので、短い時間ですが様々な試行錯誤をされます。そして「できる」とか「できない」といった結論を出されます・・・
 CAMRでは、上記のような多くの患者さんに共通に見られる振る舞いを観察して、その振る舞いの意味を言語化することから始めました。たとえば上記の振る舞いは、次のように言語化されました。「人の運動システムは、必要な運動課題を達成するために、身体の内外に利用可能なもの(「運動のための資源」=「運動リソース」)を探索する」のです。
 弛緩麻痺の軽い方であれば、力も出やすく運動範囲も重心の移動範囲も大きいので、ほんの少しの試みで立たれたりされます。健側の下肢の力で体が浮き上がるし、健側の上肢で肘掛けを押しつけたり、前方への重心移動もできます。「なんとか立てそう」と予期的に理解されますので、すぐには諦めませんし、何度か試した後になんとか立たれたりします。
 少しばかり動くことで、身体の内部に立つための利用可能な筋力や柔軟性、それに重力と床の間でなんとか体をコントロールする能力があることがわかって、それらの使い方を試行錯誤しながら立つという課題を達成されるのです。
 逆に弛緩性麻痺が重いと、どうにも身体の中に利用可能な筋力が見つからないのです。それですぐに「これではどうにも動けない」という結論になってしまうようです・・・・
 そんな風な観察を続けて、人の運動システムの作動の意味やその様子を想像していきます。他にもたくさんの観察を基に、人の運動システムの作動の特徴をまとめて理解することでCAMRはできあがりました。そして次第にリハビリでやるべきことがはっきりしてきました。
 たとえば片麻痺は大きな身体変化を起こします。半身に弛緩性の麻痺が起こります。弛緩性麻痺の部分は筋肉が緩んで水の袋のようになります。良い方の半身に水の袋のような麻痺の半身がぶら下がるため、良い方の半身を悪い方に引っ張ります。麻痺の体が重りになったり、ブラブラ揺れて体を不安定にします。力が入らず、支えたり思うように体を動かしたりできなくなります。それまで良く知っていた自分の体が未知の身体になってしまうのです。
 だからリハビリで最初にやるべきことは、まず変化した体のことをよく知ることです。どうやるかというと、まずは様々に動いてみることです。様々な課題を通して「できる」こと、「できない」ことを少しずつ探索します。(その2に続く)

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「実りある繰り返し課題」を振り返る その3&その4

目安時間:約 6分

「実りある繰り返し課題」を振り返る その3

~徹底的に振り返ってみよう(^-^)~

 秋山です。前回の投稿にご質問いただき、自分の中で整理できていなかった部分に気づきました。ありがたいことです。というわけで、補足というか修正というか。

 まず、「単純」という言い方はあまり適切ではありませんでした。「実りある繰り返し課題」を素振りに例えましたが、素振りを「単純」と言おうものなら、大谷翔平に「素振りをなめんなよ」と言われそうです(^^;)

 私は訪問で仕事をしており、クライアントと対面できるのはせいぜい週1回なので訪問日以外でも取り組みやすいものを提供する必要があります。シンプルの方がよかったかも。

 まあ、何が単純か、複雑かは意外と難しい。単に工程の多さではないですね。 CAMRでは人の運動を形ではなく機能で見ます。

 歩行障害がある時、正常歩行の形からどれだけ逸脱しているかを分析して正しい形に戻すのではありません。歩く時の運動システムが生み出す働き、重心移動・支持・振出しがどう作動しているかを見ます。

 そしてそれらを強めたり改善するには、を考えます。疾患や障害が異なると歩行の形はそれぞれ違いますが、歩行が重心移動・支持・振出しの機能から成り立っていることには変わりありません。

 だから、CAMRでは疾患や障害が異なっても、同じ課題を行います。脳卒中用の課題、大腿骨頚部骨折用の課題というものを作っていません。支持機能を高めるとか、左右の重心移動を拡大するとか、支持と反対側の振出しを同時にするとか、そういう課題を行います。

 CAMRではリスト化しています。便利です。

 障害を問わないと言っても、「このほにゃららスクワットを1日10回やれば、誰でも3か月で痩せられます!」みたいなわけはないので(どうも私の例えはダイエットか山登りが多い・・・)、セラピストの出番です。

 繰り返しますが、課題作成は疾患によって決まるのではなく、システムの作動状況によって決まります。また、痛みの有無やその方がとっている運動方略とか考慮します。レディメイドの課題をその人向けにカスタマイズするというとこですかね。

 課題設定にしても、経過をみて課題変更していくにしても、クライアント自身の「探索」が重要です。 その4に続く~ (忘れられないうちに投稿します!)

「実りある繰り返し課題」を振り返る その4

~人はみな自律した運動問題解決者~

 秋山です。暑いです。西尾さんのnoteが今の話題に関係深いテーマなので、そちらを読んでいただければいいかなーと思いながらも、いやいや、逃げちゃダメだ、あちらはあちら、こちらはこちらと気を取り直し、続きです。

 前にも述べましたが、リハビリテーションに携わる方で、ちゃんと仕事をしようと思ったら、誰でもクライアントを観察して評価してプログラムを最適なものになるように頑張っておられるでしょう。違いは何をどうみているかです。

 セラピストが出した課題を、セラピストが指導した注意点に従って「正しく」できているか?これが従来のセラピストの役割です。正解はセラピストが持っている。

 対してCAMRでは、やり方はクライアントに任せます。というより、たった一つの正常な運動などは無い、やり方は人それぞれなのだから、当事者が能動的に動いて、世界を探索して獲得していくしかない。

 セラピストの仕事は、クライアントが安全に希望を持って探索に取り組める環境を整えて課題を提供することです。

 人はみな自律した運動問題解決者であることは障害の有無に関係ありません。急性期の運動障害では、その人が無能力になるのではなく、身体リソースが著しく損なわれてこれまでの方法が通用しないという状態です。

 セラピストはクライアントに対してその人の「正しい動き方」を知っていて教えることができるのではありません。自分の運動能力を過小評価または過大評価している方に、「まず、これくらいの動きからやってみましょう」→「やってみてどうでしたか?では、これではどうですか」

 その間、足場作りでコンプリメント、ブリッジその他いろいろやるのです。また、クライアントが気づいていないリソースを促したり、偽解決のループに陥る前に他のやり方を試してもらったり。ああ忙しい。

 私たちは常に探索して世界とつながっている。慣れたところでは探索は無意識のうちに行われ、その重要さに気がついていないのだと思います。

 ここからは個人的感想ですが、「クライアントがセラピストに頼らないと運動しない」とか言う前に、クライアントの探索の邪魔をしていないか、まず気にしてみることですね。いったん、終了ですー。

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