問題は「ある」のではなく状況の中に「生まれる」、時として「作られる」 その3~誰の問題か?それが問題だ!~
秋山です。大型連休、いかがお過ごしですか?さて、完結編です。
ここで振出しに戻って、最初に起こったことは何かを考えてみましょう。そうです。「入浴介助で抱えてもらう時に首がとても痛い」だったのです。これがAさんの問題だったんですね。
そこから夫のBさんは「歩かせてなかったのが問題→歩行器を再び借りてしっかり歩かせる」、それを聞いたケアマネさん「危険なのに自分の考えを通そうとする夫の頑固さが問題→担当OTから話してもらう」、相談されたOT「足部の保護のため車椅子導入しているのに使われていないのが問題→移乗の練習。医師から歩行のストップをかけてもらう」、依頼された医師「診察していろいろ説明しても聞き入れない夫が問題→前から言っている基本を夫にやらせる」と、元の問題を離れてそれぞれが「問題」を作ってたんですね。
これら一つ一つも問題ではあるのですが、今はそこじゃない。ある問題に対して、それぞれの立場で専門性を活かして協働して解決に向かう、にはなっていない。自分が常日頃感じている問題にすり替わっていってしまった。解決すべきは「入浴時の苦痛」だったのです。
さて、解決に向けて仕切り直し。一番肝心な訪問入浴業者さんに状況を伺います。あちらのスタッフもこまっていたところでした。そこで今更ながら、Aさんの身体状況をOTから説明。スタッフから「担架みたいな補助具もあるんですがどうでしょう」と提案有り、次回試すこととなりました。Aさんにも話を伺い、首が動くと痛いという不安でより硬くなり、さらに痛みの不安が増すという悪循環がありました。
ネックピローでゆるく固定することで「これなら我慢できる」となりました。
Bさんには「歩けなくなるとの心配はごもっとも。足を保護する形で、まず立つ練習をする方法を考えます。入浴はリラックスできるよう、スタッフに任せましょう」とお伝えし、何とか納得していただけました。
Bさんには着替えの介助が難しいという悩みもありました。脱ぎ着の前に行うよう、軽く手足の屈伸のコツを説明。それを可動域訓練指導と主治医に報告(^^;) 痛みの訴え無く、入浴することができました。
この問題の解決方法はいろいろあります。今回やったことよりももっといい方法があると思います。そもそも、早く気づけよ!私!これからは多職種協働がますます重要ですが、かみ合ってないと感じることもあります。そんな時は「それは誰の問題か?」を整理してみると解決の糸口がつかめるかもしれませんね。(終わり)
問題は「ある」のではなく状況の中に「生まれる」、時として「作られる」 その2~で、何が問題だったっけ?~
秋山です。先週の続き、訪問リハビリの事例です。
Aさんは体調不良から臥床時間が長くなり、現在ほぼ寝たきりです。仰臥位の形で拘縮が進み、起き上がりや端座位保持が困難になっています。強い尖足、足趾に潰瘍や壊死があり歩行できなくなっていました。2ヶ月前まで歩行車で室内介助歩行されていましたが、足部への負担が大きく、歩行車は返却し車椅子に変更したところでした。
主介護者の夫のBさんは歩行させたいという気持ちが強く、車椅子は「乗せるのが、かえって大変じゃ」と使用されていませんでした。ベッド上清拭対応でしたが、訪問入浴を利用されることとなりました。その2回目が終わったある日・・・。
ケアマネ「Bさんが、『入浴の時、寝たままふたりでかかえられると、すごく首を痛がって大声出すけぇ、また歩行車を借りて歩かせていいか。本人も歩く方がましと言う』と言われるんですがどうでしょうか」
私「足の状態がよくないし、拘縮や筋力低下もあるから転倒リスクが高く危険ですね。壊死の部分の治療中だから足先への負担は移乗くらいの最小限でないと。車椅子を使えばいいのですが、Bさんはその気なさそうですね。使い方を説明しているんですが。今度、移乗するところをみてもらいます。とりあえず主治医から歩行のドクターストップかけてもらいましょう」
ケアマネ「主治医に伝えますね」
主治医からケアマネとリハ担当(私です)に招集かかり三者でカンファレンス。
医師「で、どうなの。歩くなんて無理でしょう」
私「そうですね、先生から足の治療のためにストップをかけてもらえ・・」
かぶせ気味に
医師「言っても言ってもだめでしょう、あそこは。もっと基本をさせないと。可動域訓練の指導してるの?」
私「なかなか忙しい方なので・・」
明らかにかぶせて
医師「そんなこといってるから、ここまでになっちゃうんでしょう!座れてるの?えっ、ほとんどやってない?もう!まず座位保持。夫にさせるためには?じゃあ、食事の時はしっかり起こして。日に3回ね。それと毎日下肢の可動域訓練させるように。プランたてて報告して」
私「・・・(そんなことできりゃ、今ここに来てないよ!)」
ケアマネ「・・・(ここはひとまず撤退しましょう)」と目で訴えられ、いったん退却。
ケアマネ「Bさんは先生への要望もしょっちゅう変わりますからね。先生も振り回されてるという気持ちがあるんでしょうね。実はこの前の入浴ではBさんが強く言って、訪問入浴の人と三人がかりで歩かせたそうです。それで『できる!』と思ったみたいです」
私「えー、だめですよ。だから足が治らないんですよ。訪問入浴さんも断ってくれればいいのに。車椅子ですよ、車椅子!」 と、車椅子を連呼しながらも、何かおかしいと思いました。
ちょっと頭を冷やして見直すと、この話の流れは変だ、解決になるのか?っていうか、そもそも問題は何だった?続く~
問題は「ある」のではなく、状況の中に「生まれる」、時として「作られる」 その1
秋山です。瀬戸内地方は葉桜となってきました。先週の写真は石見銀山の街なか、桜の向かいには有名義肢装具メーカーの社屋があります。
You tubeチャンネル「カムラーの部屋」に運動問題の捉え方がアップされています。ここではもう少し広げて生活上の問題についてです。
運動障害が同じような状態でも、その人の生活環境や社会的背景によって、生活上の困りごとは違ってきます。左手の薬指の動きが多少悪くなっても私はあまり困りませんが、ピアニストやギタリストには重大な問題となるでしょう。
「歩行困難」と一口に言っても、年代や物理的環境など諸々の状況の違いによって、困り方は変わってきます。「問題」はその人の、その時の状況によって生じてきます。
こうしてみると、何が問題なのかを見極めるのは結構難しい。在宅の方の場合は一層複雑になりやすいですね。ただこのように考えると、ご本人の身体面は変化できなくても周りの変化によって問題も変化していく、解決の糸口がみつかっていくともとれます。
援助する側も多角的な視点が必要となります。一人では難しいことも、多職種協業により解決に近づいていけます。
ですが、時として専門性にこだわるあまり、援助者側が問題を作ってしまうという状態に陥ってしまうことがあります。関わる人たちがそれぞれの視点で問題をとらえるのは有益なことです。
自分の見方が最もよく根本的原因を特定し、一番の根本的解決を導くと思い込み、「これが最大の問題だから、こうするのが正しい解決方法なのだ!」と言い出すとどうなるでしょう。それがぶつかりあったら?「そんな極端なことを・・・」と思われるかもしれませんが、自分の挙げた問題点に対して他のスタッフの反応が鈍い、逆に他のスタッフの挙げた問題点が些末に思えたりする、多角的に見るというよりてんでばらばら、お互い「わかってないなぁ」、など感じたことはありませんか。
さてさて、どうしたものやら。来週に続く~
「足場作り」リターンズ その3「褒める」は上から目線⁈
最近、褒められた覚えのない秋山です(^^;)そう、歳をとると褒められることが少ない。褒められるのは「上の人」からというイメージがあるせいでしょうか。
いざ褒めようとすると意外と難しい。特に仕事上、年上の方に対してとなるとなおさらです。難しさの一つに「偉そうな言い方になっていないか心配だ」があると思います。
患者さんを褒めなくちゃと思うのだけど、どう言っていいのかわからない、「若造が偉そうに」と思われないか?「子ども扱いしおって」と思われないか?できてないのに無理矢理こじつけになってないか?考えれば考えるほど、難しく思えてきます。
コンプリメントcomplimentは「ほめ言葉」と訳されますが、ここでは「ねぎらう」と言った方が理解しやすいと思います。結果を褒めるというよりも、過程をねぎらうということですね。結果を褒めてももちろん良いのですが、こちらが判定を下しているという枠組みにはならないように注意したいです。上手くできたら褒める、できない時は褒めない、ではないのです。
実際、患者さんは難しいことに取り組んでいるわけで、楽ではないですよね。「難しいのによく頑張られましたね」「今日もしっかり運動されましたね」など、苦労をわかっていますよと伝えられると「わかってくれている」と患者さんも思える。上手くできた時は「やりましたね!」と一緒に喜ぶスタンスなら無理なく言葉にしやすいのでは。コンプリメントには「丁寧なあいさつ」という意味もあるそうですよ。
アドラーは、よくできたと褒めるのではなく、ありがとう助かったと感謝を述べるのだ、と言っていますが、まあ、あまり背伸せず、今できることを確実にやっていきましょう。
「またうまいこと言って」と言われてもニヤニヤしてくれてたら、有りですかね。「心にもないことを言って」とムッとされたら言い方を考え直してみましょう。
みなさん、今日も1日お疲れ様でした。よく頑張りましたね!難しいことも最後までやり切りましたね!忙しい中、読んでくださりありがとうございます!
*過去投稿の再掲です(^^;) しかもイラスト間に合わず・・・。
「足場作り」リターンズ その2”コンプリメントは難しくない!”
秋山です。寒いです。
かつてOT学会でコンプリメントについて発表したことがあります。その時に「どう話せばいいか、難しい」と言われることが少なからずありました。なぜ難しいと思うか伺ううちに、意味づけや価値について言わなければならないと思っているせいではないかと考えました。
CAMRでいうコンプリメントでは、意味を説明するとか価値観の転換を図るとかは行いません。患者さんの行動や置かれている状況を、ただねぎらったりほめたりするのです。私がコンプリメントで使っている言葉はシンプルです。「いいですね」「頑張りましたね」「できてますよ」突き詰めればこの3種類くらいです。
これらをいろんな場面で言います。「足がよく上がっています。いいですね」「50回やり通しましたね。頑張りましたね」「え?『右足が出てない』?足先がここまで出てますよ。できていますよ」「初めての運動なのに、よく頑張られましたね」「今日もしっかり運動されましたね。いいですね」など。
成功体験に結び付けるのにも、コンプリメントは有効です。立位課題でふらついても「よく踏みとどまりましたね」「お、チャレンジの結果ですね」とか。できそうな課題と思っても、上手くいかないこともあります。そんな時にも、「初めての課題でここまでできるのはすごいですよ」など、患者さんが「失敗だ、ダメだ」で終わらないような言葉かけを工夫できるといいですね。
また、セラピストの立場か、患者さんの立場か、どちらで言うかで違ってきます。入院初日の患者さんの初回訓練、疲れてこられた患者さんを気遣い、今日はこの辺にしよう、とあなたは考えました。その時。①「もう疲れてますね。今日はここまでにしましょう」と、患者さんを送っていく。②「初日で慣れない中、お疲れになったでしょう。いろいろ動きを見せてくださり、ありがとうございました。少しずつ運動を増やしていきましょう。また明日お願いします」と、患者さんを送っていく。
思いやる気持ちは同じでも、印象は違ってきますね。
背中で語っても伝わりにくい!普通の言葉でしっかり伝えることで良い関係が築けると思います。
「足場作り」リターンズ その1”コンプリメントって何だっけ?”
こんにちは、秋山です。花粉症辛いです。黄砂が追い打ちをかけます。沖縄にスギ花粉症が無いというのは本当ですか⁈
西尾さんの休憩前の投稿で、「状況変化のやり方は無限に存在すると言っても良いのですが、今回のようにコミュニケーションのやり方を変化させる、コミュニケーションの立場を変化させることはとても有効であると気づかされました。これ以降は状況変化の第一選択に、コミュニケーション関係の変化を持ってくるようになりました」とあります。何と言っても著書名のタイトルが「リハビリのコミュ力」(西尾,金原出版,2017)ですから。
CAMRはクライアント-セラピスト協働アプローチです。セラピストによらしむべし、でもなければ、クライアントの言うなりでもないのです。それぞれがそれぞれの立場で最善を尽くし、協働して問題解決にあたるわけですね。
「なんと当たり前のことを」と思うかもしれませんが、これ、けっこう難しいです。熱心さのあまり、セラピストが専門家として無意識に支配的立場に立ってしまっていることがあります。「私が頑張って、困っているクライアントを正しい方向に導かなくては!」というところですが、その方向ではないということは、ここまで読まれた方はお気づきでしょう。熱いハートは大事なのですが、実践には工夫がないと「空回り」「クライアント置き去り」になりかねません。
また、「クライアントとの円滑な治療的関係」なんて、これだけでは絵にかいた餅ですね。セラピストの人間性を高めるというような精神論では、定年までに到達できるかも怪しい。ハウツーではすぐ見破られてしまう。これは就職した当初から今も続く私の悩みです。もやもやを抱えながら、ごまかしだけ上手くなってゆく・・・
そこで「足場作り」=良い建物を建てるにはしっかりとした足場が必要なのと同じで、良い治療関係構築には適した技法を身に着けるということです。
こう書くと深夜の通販番組の煽り文句みたいですが、「これだけ知っときゃ大丈夫!らっくらく!」ではありません。言葉かけが上手い先輩や、いつも良い雰囲気で仕事をしている人の経験知を学べる形に言語化して誰もが使えるようにする。それを知ることでセラピスト側に状況変化が起き、クライエントとのコミュニケーションが変化します。
これは心理療法の中の短期療法、家族療法に基づいています。
クライエント-セラピスト協働は私の長年の課題で、前置きが長くなってしまいました。まずは理屈よりも明日から使える工夫その1「コンプリメント」について。
コンプリメントとは、労うとか褒めるという意味です。
「褒める」というと上から目線と感じるかもしれません。時代劇で殿が「大儀であった!」家臣「ははっ!ありがたき幸せ」的なものではないですよ。クライアントの行動への肯定的共感と言えばいいのかな。やってこられたこと、今されていることを否定しない、励ますという感じです。大げさに言いたてる必要もないし、ネガティブなことが全く無いかのように言いくるめる必要もありません。
言葉かけ自体はシンプルです。要はタイミングと言い方ですかね。詳細は続く
CAMRの効用 その3 ※個人の感想です(^^;)
秋山です。右片麻痺の方の患側支持練習の結果編です。
立位課題に対しては回数を増やす等、適宜ご本人と相談しながら進めました。歩行訓練は、距離やコースは本人にお任せ、私は何も指示することも介助することもなく、いざという時の見守りでした。
立位課題の左右重心移動で右への動きが拡大してきたり、健側の前方踏み出しが広がったりと、患側下肢での支持がちょっと長くなりました。
そのように患側下肢をより使うようになられたなと思う頃に、「今日は右足がよく出るから、もう少し歩く」と自分から言われることが増え、全体に距離が伸びてきました。
「足がまっすぐ出た」とは本人は感じないけど、「足がみやすく(簡単に)出て楽だった」という本人にとってプラスの変化を実感されていました。その方は、「ちゃんと歩くためには、足がまっすぐ出ていないといけない」から「歩きやすいと感じる時は足もよく出てる。いろいろ運動しておくと歩きやすい」と思われるようになっています。
しかしセラピストの視点からは、右半身が後ろに引けていたのが目立たなくなり、右足も側方からではなくより前方に振出す、つまりよりまっすぐに振り出すようになられました。
形も変化しているのです。おそらく健側下肢が前方により大きく出るので推進力が増し、患側下肢は筋などの粘性で、前方により強く引っ張られ、ぶん回しスキルへの依存が少なくなったのでしょう。
結果、図らずも脚は以前よりはまっすぐに振り出される形になったわけです。
CAMRの視点からみてみましょう。CAMRでは正しい運動、間違った運動という見方はしません。
中枢神経障害により異常運動=正常から逸脱した運動が出現しているとみるのではなく、障害に加えてそれに対する運動システムの問題解決などの相互作用からその状態になっていると考えます。
今回のクライアントの患側下肢がまっすぐ出ないという現象は、麻痺して今までのやり方では振り出せなくなった下肢を何とか振り出そうとした結果とも言えます。
麻痺した下肢を振り出すためには健側下肢と体幹で振り出すしかなかったのです。異常な運動が出たのではなく、使える機能で何とか「歩く」という運動問題を解決しようとした。目にしている運動の形はそのようにして選択されたものです。だからアプローチとしてはこの方が脚をまっすぐに振り出すことを目標にしても失敗経験を繰り返すだけです。
むしろ柔軟性を改善し、荷重経験を繰り返し、患者さん自身がより歩きやすいスキルを探索された結果、つまり運動システムの作動が変化した結果として形も変わってきたのです。
ただ、運動システムが選択した問題解決は、常に最適とは限りません。本当は他の解決方法があるかも知れない。そこは何とかしたい。この方の場合は、麻痺側下肢の支持機能があるのに動作では十分に使っていないことがわかり、本人も納得されて麻痺側での支持を行う課題を実施、システムの作動が変化して歩きやすくなりました。
健常者の運動の形を真似するという目標はあまり意味がありません。できれば自然にしていることですから。むしろ運動システムの問題解決を理解し、適切な要素を変化させたり、支持や振出し、重心移動という機能(働き)から運動を見て、変化できることから取り組む例として、みなさんに伝われば幸いです。(終わり)