新しい視点を身につけることの難しさ(その3:最終回)

目安時間:約 4分

新しい視点を身につけることの難しさ(その3:最終回)

 ここまで新しい視点を理解することが難しいのは、学校で習った理論を真実と思い込む、あるいは間違った因果関係の仮説を信じ込んでしまったせいだと述べてきた。

 まあ、学校でそう教え込まれていることもあり無理のないことだと思う。

 だが臨床で働いていると否応なしに学校で教え込まれた内容に疑問を持たざるを得ないことも多い。

 たとえば「分回し歩行」 これは学校でよく使われる教科書には、「異常歩行」とか「代償運動」というラベルを貼られている。臨床で働いているとこのラベルをとても悲しく感じる。

 というのも「健常者の歩行と形が違っている」ことが異常と呼ばれる。麻痺のある体で一生懸命に歩くための運動スキルを試行錯誤、獲得したのである。患者さんの汗と苦心の末に身につけた運動スキルである。これをあっさりと「異常」と名付けてしまって良いのか?思わず「健常の歩き方でないといけないのか!」といいたくなる。

 なんだかマジョリティの健常者からマイノリティの障害者に対して、「それは異常だから良くないよ」と上から目線で批評しているようで嫌な感じである。

 代償運動も健常者とはやり方が違うからという理由で名付けられている。代償も日本語の意味はあまりよくない。犠牲を払うとか代償を償うとか、高くつくなどという言葉が並んでいて、これまた「治さなくてはいけない」とセラピストを駆り立ててしまう。

 更に代償運動は、そのまま使っていると他の部分にストレスがかかって、痛みや新たな傷害を起こすなどという説明がついている。こうなるともう「錦の御旗」のようなもので代償運動はなんとしても「治すべきもの」となってしまう。

 それで異常歩行も代償運動も、治さなくてはいけないからと何をやるかと言えば、健常者の歩行が正しくて、負担のない歩行スキルに間違いないと、健常者の歩行を目指そうという方向になってくる。

 だがその前に考えるべきは、麻痺はどうも治せないということである。ここでも再々述べているが、僕が実習生時代に「歩き方を治せ」と指導していたおじいちゃんから、「歩き方を治すから、まずお前がわしの脚のマヒを治せ」と言われて「全くその通り」と沈黙してしまったことを思い出す。

 リハビリは決して万能ではない。限界をはっきりと認め、その中で何とか工夫して頑張らないといけない。

 現在も「歩き方を治せば、つまり正しい歩き方を身につければ麻痺が治る」みたいな論法を平気で言っているセラピスト達に会うことがある。因果関係では当然原因(脳細胞の傷害)にアプローチする訳だが、結果(歩行のやり方)にアプローチすることによって原因を解決するみたいな滅茶苦茶な論法である。

 誰もこのトンチンカンな論法を正そうとしていないところが現在の問題である。若い人達は、自分たちのやっていることにもっと厳しい目を向けて欲しいものだ。徹底的に話し合って矛盾をあぶり出し、その上でどうするかを検討し、アイデアを出してほしいものである。

 どうも年寄りの愚痴になってしまった。書きたいことはまだたくさんあるが、このシリーズはここでいったん閉じたいと思う。(終わり)※No+eに毎週木曜日は、別のエッセイを投稿中!最新の投稿「運動スキル学習-運動スキルが創造されるまで(その4)」https://note.com/camr_reha

にほんブログ村 病気ブログ 理学療法士・作業療法士へ

新しい視点を身につけることの難しさ(その2)

目安時間:約 5分

新しい視点を身につけることの難しさ(その2)

 前回、「あなたは伸張反射や原始反射などの亢進を悪いことではないと言っているみたいだ。でもこれらは正常な運動の出現を邪魔するので、まず抑制するべきです!」と批判されたことを紹介した。

 前回この意見の矛盾点を説明しようと思っていたが、書き進むうちに別の展開になったしまった(^^;)今回説明してみようと思う。

 最初に簡単な例を紹介する。大森莊藏という哲学者が次のようなことを言っている。

 稲妻がピカッと光って、ゴロゴロと雷鳴がなる様を古代の人達はどう思っただろうか。おそらく「ピカッと光るのが原因で、ゴロゴロ鳴るのが結果である」と考えたのではないか。

 だがこれは間違った因果関係である。本当の原因は雲の中の摩擦電気の放電が原因である。その結果、ピカッと光る稲妻もゴロゴロなる雷鳴の2つともが結果である。つまり古代の人は結果同士に間違った因果関係を想定しただろう。

 もうお気づきだろうと思う。神経生理学者のジャクソンは、「低下・消失した正常な運動」という陰性徴候も「伸張反射や原始反射の亢進」という陽性徴候も、脳の細胞が壊れたことを原因としてうまれた症状である。つまり両者共症状、つまり結果である。

 もしジャクソンの神経生理学を信じているのなら、「亢進した伸張反射や原始反射が、正常運動の出現を妨げている」という因果関係の説明は、結果同士の間に間違った因果関係を想定していることになる。

 この間違った因果関係の想定を信じているので、僕の言っていることは間違いだと信じているらしい。

 ただこの因果関係の想定を信じる臨床的な経験があることも知っている。まさしくCAMRで言っていることだが、脳性運動障害ではまず弛緩状態が観察される。弛緩状態では動けないので弛緩した部分を身体にある様々なメカニズムを使って体を硬くするとい「外骨格系問題解決」という問題解決を図っているわけだ。

 体を硬くすると言うのは弛緩状態から動き出すための問題解決で、それによって支持性が出るし、弛緩部分を1つの塊として引きずってでも動くことができるわけだ。

 しかしこの問題解決にはブレーキにあたるものがない。それでドンドン硬くするという問題解決の作動を繰り返して過緊張状態を起こし、却って運動が低下・消失し、血流が悪くなり痛みや不快感を生んでしまうという新たな問題を生み出してしまう。

 これはCAMRでは偽解決状態と呼ぶ。この過緊張状態は直接の症状ではなく、障害後に運動システムの問題解決の作動が繰り返されすぎた結果として生まれた現象である。

 だからこの過緊張状態を抑えて柔軟性を改善すると、運動範囲が広がり、重心の移動範囲も広がって、よりスムースで大きい運動が現れるわけだ。

 この場合は弛緩状態に対する運動システムの問題解決として体が硬くなり、その結果動きが悪くなっているので、因果関係は成立している。

 だがそれを「正常な運動が出現した」と呼ぶのはおかしい。本来持っている、あるいは残存している運動能力が発揮されたわけだ。

 講義の中ではこんな説明をしているし、動画も見てもらっているのだが、どうも最初に「間違っている」と考えてしまうので、CAMRの考えは全く頭に入っていない様子である。

 思い込みや先入観とは言っても「学校で最初に教えられたことは、とても強力であるなあ!」と感心してしまう次第である。

 まあ、新しい視点を身につけることはやはりむずかしいなあ、ということである(^^;)次回に続くと思います。(その3に続く)

※No+eに毎週木曜日は、別のエッセイを投稿中!最新の投稿「運動スキル学習-運動スキルが創造されるまで(その3)」https://note.com/camr_reha

にほんブログ村 病気ブログ 理学療法士・作業療法士へ

新しい視点を身につけることの難しさ(その1)

目安時間:約 6分

新しい視点を身につけることの難しさ(その1)

 講習会でシステム論の説明をしていると、一向に理解してもらえないことがある。説明が下手といえばそれまでだが、どうも話を聞いた上で納得できないと言われる。 

詳しく話を聞いてみると、「(僕の)言っていることが間違っている。間違いを前提に話をしている」などと言われてしまう。

 「どこが間違っているの?」と聞くと、「あなたは伸張反射や原始反射などの亢進を悪いことではないと言っているみたいだ。でもこれらは正常な運動の出現を邪魔するので、まず抑制するべきです!」などと言われる。

 なるほど、ジャクソンの階層型理論や陰性徴候、陽性徴候を基にした神経生理学を学校で教えている。階層型理論では、中枢神経系は、上位、中位、下位レベルと階層を作っていて、伸張反射や原始反射は下位の脊髄レベルの機能であってこれが亢進するのは、上位レベルのコントロールが失われた下位レベルの解放現象だ、みたいな説明がよくされる。

 これは驚くべきことだろう。ジャクソンの階層説は19世紀の後半に提案されたもので、今から130-140年前のものである。単に古いということもあるが、「臨床でもこの説明の矛盾する現象は割と見られているのに、疑問に思わないのだろうか」などと思う。

 一つの例を挙げると、立ち上がると患側下肢が屈曲してしまい、健側下肢だけで立っている患者さんがいる。これは従来「患肢に屈曲共同運動が見られる」などと陽性徴候として説明されてきた。下位レベルの解放現象だ、だから抑制しないといけない、と。

 しかしこんな患者さんの麻痺側下肢にプラスチックの短下肢装具を装着して一度荷重練習すると、たちどころに「屈曲共同運動」なるものは消えて見られなくなることも多い。

 そうすると「足関節が補装具によって正常なアライメントに保たれるので、正しい運動感覚学習によって屈曲共同運動が抑制されるのである」などと説明される。なるほど、頭が良い・・・・(^^;))

 しかしシステム論を基にしたCAMRでは次のような解釈を行う。麻痺側下肢に内反の変形が生まれていて、その内反の足で体重支持しようとすると転倒しそうになる。そこで運動システムが問題解決として、患側下肢を支持に使わないように屈曲しているのではないか。

 つまり運動システム自身が「使わない」という問題解決を図って、屈曲して持ち上げているのではないか。プラスチック装具を装着して荷重するとちゃんと荷重できることが運動システムにわかるので、不使用の問題解決を自らやめて荷重するようになるのではないか。

 こんな解釈もできるはずである。まあ、一つの可能性である。しかし、それについて何ら検討もすることなく、「それは事実に反する」などと反論を受ける。 「ジャクソンの階層型理論は現在の神経学の基礎になっているように、真実だからだ」と言われたりする。

 つまり階層型理論かシステム理論か、「どちらが真実か?」という視点で、「階層型理論の方が真実である」と信じ込んでいるように見える。

 たが基本的に階層型理論にしてもシステム論にしても、運動変化を説明するための仮説に過ぎないものだ。どちらが真実かは僕にはわからないし、どちらの仮説にも矛盾点は見られるし、上手く説明できないところもある。

 だからCAMRでは次のように考えることにしている。臨床家にとって理論とは、ある現象を説明するための道具である。つまりその理論によって現象を理解し、問題解決方法を導くための道具である。

 道具だから使い道に違いがあるのが当たり前である。フォークは刺して食べるのに便利だが、スープを飲むときはスプーンの方が向いている。状況に応じて使い勝手の良いものを選べば良い。

 それに道具だと思えば、真実かどうかを気にすることはない。「このスプーンは真実である」などというのはナンセンスだから・・・・

 だから視野を広めるために、どちらの理論も理解して、状況によって使い分けたらどうかと提案するのだが、なかなかこれは受け入れられない。

 まあ、その気持ちも良くわかる。長い間、同僚や後輩に向かって説明してきたアイデアである。今さら「それは仮説だから真実かどうかはわからない」などと言えるはずもないだろう。これまでの自分を否定することになるからだ。それで、自分がこれまで築いてきた考えや知識を脅かす新しい説明、新しい理論を受け入れることはできないのである。これはまあ自然の感情である。

 ではどうしたら良いのだろうか?何度も説明を聞いて納得する方もいるが、頑として途中から説明を聞くことを拒否する人もいる。「言葉を尽くして説明する」ことも難しくなる。僕も口下手だし、頭も良くないのでなかなか説得力のある言葉にならない・・・・

 今回のシリーズはどんな感じになるわからないが、ともかく思いつくままに考えを巡らしてみようと思う。(その2に続く)

※No+eに毎週木曜日は、別のエッセイを投稿中!最近の投稿「自律的問題解決とは?(その1)」https://note.com/camr_reha

にほんブログ村 病気ブログ 理学療法士・作業療法士へ
CAMRの最新刊

CAMR基本テキスト

あるある!シリーズ

運動システムにダイブ!シリーズ

CAMR入門シリーズ

カテゴリー

ページの先頭へ