リハビリの学生時代から気になっていたのだが、「整形ばかり見ているので脳卒中は分からない、手が出ない」とか「大人の整形を見てきたので、脳性麻痺の子どもたちを見てもさっぱり分からない」という話を先輩セラピスト達がよくしていた。
それはそうだと思うのだ。つまり整形疾患や脳卒中、脳性麻痺にはそれぞれ知っておくべき知識と配慮があり、まず基本それは知っておくべきだと思うのだ。だからそれぞれの分野に移れば知識や配慮の再学習や再獲得をまず目指すべきだと思う。
そう言うと、「いやいや、障害の原因と質がとても違うので、それまでのやり方がほとんど通じなくなってしまうので、知識だけの問題ではない」と指摘される。脳性運動障害では広範囲に麻痺が出てリハビリでは治らない。整形では元のように治るのでリハの方針も評価も考え方もアプローチも丸っきり違ってくる。全体像が丸っきり異なってしまうのが当たり前で、知識や配慮のレベルの問題ではないのだ」と言われたりする。
何が気になるかというと、もし整形領域に就職すると先々脳性運動障害は見られなくなるのではないか、ということだ。最初にどこに就職するかでやれる職域が決まってしまうのではないか、と心配したのである。
ただそんな話を聞いているうちに、どうも納得できないところが膨らんでくる。たとえば先輩セラピスト達の言い分を聞いているとどうも整形疾患と脳性運動障害の違いは、自動車とテレビの違いくらいの感覚なのではないか、ということだ。自動車の修理工はテレビを直せないし、テレビの修理屋は自動車を直せないと言っているように感じてしまう。電気製品と機械製品は基本的に違うのだ、ということなのだろう。
でもリハビリで対象とするのは同じ人の運動システムである。機械製品と電気製品のような別物ではない。その同じ人の運動システムの障害の原因となっているものが、筋・骨か神経系かの違いである。それにそれらは元々一緒に動いているものでもある。神経系と筋骨系は一緒に動いているのであるから、そこまで人の体を分けて考えることもないだろうと思う。
CAMRでは人の運動システムは構造や各組織・器官の働きで理解するだけではなく、運動システムの作動の特徴でも理解する。自律性や状況性の作動の特徴は、どの障害でも関係なく同じように見られる。
たとえば「状況性」の作動とは、「人は無限の状況変化の中で、運動を無限に変化させ、できるだけ適応的に振る舞おうとする作動」である。
「(機械のように)人には正しい運動の形・やり方がある」などと考えていると、「人の運動が無限に変化する」ということを聞いてびっくりされるが、日常生活の様々な活動を見てみると確かに人は同じ動作や運動を繰り返さないものである。歩くことを考えても坂道や段差、狭い道、混雑した道など歩き方は常に変化しているのである。
この「無限に運動を変化させる仕組み」は、人の運動システムが豊富な運動リソース(運動の資源:柔軟性や筋力、持久力、感覚など)を持っていて、それを基に無限の運動変化を生み出す運動スキルを状況変化に応じて生み出す能力を持っているからだ。
障害を考えてみると、筋力や柔軟性、持久力、感覚などの運動リソースが失われてしまうので、それを基にした運動スキルも多彩に生まれなくなり環境や状況の変化に適応的に運動や行動を変化させることができなくなった状態である。
だからまず必要なのは、筋力・柔軟性・持久力などの身体のリソースを豊富にすること。また利用可能な環境内の道具や設備等の環境リソースを豊富にすることである。そしてこれらの増えた運動リソースを基に多様で柔軟な運動スキルを生み出す練習をすることである。
そう考えると、整形疾患だろうが脳卒中だろうが、脳性麻痺だろうがやることは同じだと考えられる。もちろん運動リソースの増やし方や運動スキルのやり方の方法が障害毎に知識や理解、配慮が必要だというだけのことである。
「神経系の障害と筋骨系の障害は違う種類の障害だから」と言うのは、あまりにも人の体を分解して、それぞれの部分に関する知識やアプローチを専門化しすぎて理解するせいだろうと思う。人の運動システムを分解して見ていては全体像が理解できなくなる。
リハビリのセラピストは筋肉・関節や神経の身体部分の専門家ではなく、患者さんが必要な生活上の運動課題を達成できるように運動システム全体の専門家であってほしいものである。






















