「実りある繰り返し課題」を振り返る その3
~徹底的に振り返ってみよう(^-^)~
秋山です。前回の投稿にご質問いただき、自分の中で整理できていなかった部分に気づきました。ありがたいことです。というわけで、補足というか修正というか。
まず、「単純」という言い方はあまり適切ではありませんでした。「実りある繰り返し課題」を素振りに例えましたが、素振りを「単純」と言おうものなら、大谷翔平に「素振りをなめんなよ」と言われそうです(^^;)
私は訪問で仕事をしており、クライアントと対面できるのはせいぜい週1回なので訪問日以外でも取り組みやすいものを提供する必要があります。シンプルの方がよかったかも。
まあ、何が単純か、複雑かは意外と難しい。単に工程の多さではないですね。 CAMRでは人の運動を形ではなく機能で見ます。
歩行障害がある時、正常歩行の形からどれだけ逸脱しているかを分析して正しい形に戻すのではありません。歩く時の運動システムが生み出す働き、重心移動・支持・振出しがどう作動しているかを見ます。
そしてそれらを強めたり改善するには、を考えます。疾患や障害が異なると歩行の形はそれぞれ違いますが、歩行が重心移動・支持・振出しの機能から成り立っていることには変わりありません。
だから、CAMRでは疾患や障害が異なっても、同じ課題を行います。脳卒中用の課題、大腿骨頚部骨折用の課題というものを作っていません。支持機能を高めるとか、左右の重心移動を拡大するとか、支持と反対側の振出しを同時にするとか、そういう課題を行います。
CAMRではリスト化しています。便利です。
障害を問わないと言っても、「このほにゃららスクワットを1日10回やれば、誰でも3か月で痩せられます!」みたいなわけはないので(どうも私の例えはダイエットか山登りが多い・・・)、セラピストの出番です。
繰り返しますが、課題作成は疾患によって決まるのではなく、システムの作動状況によって決まります。また、痛みの有無やその方がとっている運動方略とか考慮します。レディメイドの課題をその人向けにカスタマイズするというとこですかね。
課題設定にしても、経過をみて課題変更していくにしても、クライアント自身の「探索」が重要です。 その4に続く~ (忘れられないうちに投稿します!)
「実りある繰り返し課題」を振り返る その4
~人はみな自律した運動問題解決者~
秋山です。暑いです。西尾さんのnoteが今の話題に関係深いテーマなので、そちらを読んでいただければいいかなーと思いながらも、いやいや、逃げちゃダメだ、あちらはあちら、こちらはこちらと気を取り直し、続きです。
前にも述べましたが、リハビリテーションに携わる方で、ちゃんと仕事をしようと思ったら、誰でもクライアントを観察して評価してプログラムを最適なものになるように頑張っておられるでしょう。違いは何をどうみているかです。
セラピストが出した課題を、セラピストが指導した注意点に従って「正しく」できているか?これが従来のセラピストの役割です。正解はセラピストが持っている。
対してCAMRでは、やり方はクライアントに任せます。というより、たった一つの正常な運動などは無い、やり方は人それぞれなのだから、当事者が能動的に動いて、世界を探索して獲得していくしかない。
セラピストの仕事は、クライアントが安全に希望を持って探索に取り組める環境を整えて課題を提供することです。
人はみな自律した運動問題解決者であることは障害の有無に関係ありません。急性期の運動障害では、その人が無能力になるのではなく、身体リソースが著しく損なわれてこれまでの方法が通用しないという状態です。
セラピストはクライアントに対してその人の「正しい動き方」を知っていて教えることができるのではありません。自分の運動能力を過小評価または過大評価している方に、「まず、これくらいの動きからやってみましょう」→「やってみてどうでしたか?では、これではどうですか」
その間、足場作りでコンプリメント、ブリッジその他いろいろやるのです。また、クライアントが気づいていないリソースを促したり、偽解決のループに陥る前に他のやり方を試してもらったり。ああ忙しい。
私たちは常に探索して世界とつながっている。慣れたところでは探索は無意識のうちに行われ、その重要さに気がついていないのだと思います。
ここからは個人的感想ですが、「クライアントがセラピストに頼らないと運動しない」とか言う前に、クライアントの探索の邪魔をしていないか、まず気にしてみることですね。いったん、終了ですー。
「実りある繰り返し課題」を振り返る ~「実りある」とは?~
秋山です。ご無沙汰でした。さぼってる間に7月になってました。体感的には8月の暑さですなぁ('◇')ゞ
新しい運動課題は、やり始めは上手くいかないこともあります。だんだん上手になり課題達成!となると新しい運動課題となります。また、動作は洗練されてくると最小の動きで達成されて決まった動きや部位だけが使われてきます。課題がいつまでも達成できなければ、現時点では適切ではないと言えます。そういうわけで「運動課題を変更していく」ことはセラピストの大事な仕事です。
おっと、これは「繰り返し課題」と矛盾するのか?いえいえ、そうではないです。最近あまり登場していなかった、でもいろんな面で価値ある「実りある繰り返し課題」を振り返ってみようと思います。
「実りある繰り返し課題」を一言で説明するならば、野球における素振りです。ボールが打てるようになっても素振りは続けるものなんでしょうね。きっと大谷翔平もやっている。ただ、闇雲に回数だけ積み重ねても良くないようですね。これはリハビリ分野でもそうです。
余談ですが、リハビリは痛いのを我慢して苦しいくらいやらないとダメ、いや、それぐらいでないと効果がないというクライアント、時にはセラピストがおられますが、あれは良くないと思うんですよね。楽ではないし、しんどいこともある。でも、苦痛は避けるべき。まあ、「やった感」をもつのはモチベーション維持に有効ですが。
上手くまとまらなくなったので、次回に続きます(^^;)
「実りある繰り返し課題」を振り返る 忘れた頃の“その2”
秋山です。その1からなんと一か月経ってるではありませんか!あらびっくり!!何事もなかったかのように、その2の始まりです(^^;)
「実りある繰り返し課題」の具体的な運動課題は、特殊なものではありません。訓練場面や自主トレ課題として、よく使われる、ある意味「ありきたりなもの」です。
職場の他職種スタッフから、ご自身の腰痛対策の相談を受けることがあります。ストレッチとかドローインなどを痛みの出ない範囲でこつこつやりましょうね、と言うと、「つまんねー奴だなー」的な表情をされることがあります。なんか、もっとこう、ガッガッとやってバーンとすっきり治るようなものが欲しいのよ、と表情が語っています・・・。
そんなもん無いよ!万人に共通するそんなもんがあったら、苦労しないよ!と心で叫ぶ。あ、話がずれました。
歩行に繋げていきたいという方への具体的な種目としては、立位でのつま先立ち、下肢横上げ、足踏み、左右重心移動、スクワットなどなど。単純なものが良いです。一人でもできるような。いろんな運動リストを持っておくと便利です。詳しくは「リハビリのコミュ力」(西尾、金原出版)をご参照ください。
より大切なのは、何をやるかよりも、どうやるかだと思います。負荷とか、上肢支持の有無とかで難易度が変わります。達成可能で、クライアント自身が「この運動は効きそう」と思えて「よし、今日も頑張った」と満足できるセッティング。そして達成度合いによって変化させていく。
こう書くと難しそうですが、実際にやってもらってクライアントに尋ねていけばよいのです。答えはクライアントが持っている。
回復中のクライアントの場合、どんどんできるようになって種目やセッティングを短時間で変えていくことがあります。こっちも調子にのってしまうことがる。かつて、「やっとできるようになったと思たら、もう次か。簡単に言ってくれるねぇ」と苦笑いで言われたことがあります。課題がどんどん進むのが嬉しい方もいるので、よくみないといけませんね。 ~続く~
運動スキルて何だっけ?その2~パフォーマンスはけっこうすぐ変わる(こともある)~
西尾さん、おかえりなさい!投稿がにぎやかになり、つい自分の分のアップが遅れてしまいました・・・。油断してた・・・。
趣味で山登りに行ってます。たまーに行く程度の永遠の初心者なので、二足歩行で登れる山にしか行かないのですが、時に手足を駆使して岩にへばりついて這い登らないといけない時があります。
同行の経験者が「そこに右足かけて、右手であそこ持ったら左足がここに上がるでしょう」と指示を出すのですが、上手くいくとは限らない。しばしば意味が分からない。というより、それができれば困っとらんわ!かと言って、「思うようにやればいいんよ」では皆目見当がつかない。ああ、これはクライアントさんがリハビリに臨む時とおんなじなんだろうなあ。
まぁ、事細かに指示をされても、体格も運動機能も元々のスキルも違うのでパフォーマンスが同じにならなくても不思議はないです。それと、経験者(セラピスト)には道筋がわかっているから次への準備をしながら動くけれども、新しい不慣れな課題を初めてする人にはそれはわかりません。
たまたま上手くいっても、次に活かせないので常に指示が必要となります。「さっきのところと一緒よ。同じように行けばいいんよ」「どこが同じなんかわからん。できん」「さっき登ったでしょーが!」「そんなこと言われても、どこに取り付いていいのかわからんもんはわからん!」
ああ、せっかくの楽しいはずの山登りがぁぁ・・・。
結局、自分で動いて試行錯誤するしかないのです。でも、有益なアドバイスはあります。例えば、足掛かり全く無しと思ってもこれくらい足先がのれば踏ん張れるとか、大きく足を上げすぎると次が続かないから初めは小さくとか、左手がひっかかったらひっぱり上げる力が使えるがその辺にホールドはあるかとか。右のルートが簡単に見えるかもしれないが左ルートの方が長くてもホールドが多いとか。
その上で、自分ができること、できないことがわかってきてどう進めばいいか、なんとなーくわかってきます。すると次の岩場ではさっきよりもぐっとパフォーマンスは改善します。
この時、筋力や可動域というような身体リソースはごく短時間なので改善したとは思いにくい。有用な環境リソースを発見しやすくなっています。探索によって運動スキルの創造がみられて、「この課題はできる、できた!」となりました。適切な課題(技量にあった山)、コンプリメント(「大丈夫、いいよ!」)は大事ですね。
中四国最高峰の霊峰石鎚山には鎖場があるんです。怖くていつも迂回路を行きます。いつかスキルは創造されるのでしょうか?(終わり)
運動スキルって何だっけ?その1
秋山です。爽やかな初夏と思っていたら、九州南部は梅雨入りとか・・・。
CAMR入門シリーズその5の動画がアップされています。リソースとスキルがわかりやすく説明されています。是非ご覧になってください。
「CAMR入門その5 課題を達成するのは筋力ではない!運動スキルである!」
https://www.youtube.com/watch?v=MaT8Wj1x5S8
で、最後の方に出てくる「セラピストは運動スキルを教えることはできない」「セラピストの仕事はクライアントの探索の援助」について。CAMRの中では「正しい運動の仕方なんてものはない」ということがよく出てきます。
それは納得したとして、では画一的ではなく個々に応じた運動の仕方を教えることはできるのか?答えは「No!」です。
運動スキルの創造は患者さん自身の探索活動によってなされます。その人にあった動きかどうかをこちらが決めて、それを練習してその通りに獲得することはできません。
でも、ついつい教えてあげたいと思っちゃいますよね。外から見てると、わかっちゃう気になるんですよね。ついつい、細かく「あーして、こーして」と言いたくなる。
いや、むしろ運動の仕方を伝授することがセラピストの役目ではないのかとすら思うかもしれません。運動や疾患について勉強してきたし、いろいろな症例を見ているし。クライアントにわざわざ無駄な試行錯誤をさせる必要はないのではないか?だんだん一理あるような気になってきますよね。
次回、自分たちが課題達成する時を例に、やはり行為者自身が探索し試行錯誤を重ねる必要があることを見ていきましょう。続く~
問題は「ある」のではなく状況の中に「生まれる」、時として「作られる」 番外編~問題も「問題」にならなければ問題ない
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秋山です。連休は九州旅行に行き、温泉に入りすぎて肌の油分が無くなってしまいました。乾燥してかゆいです。
判じ物のようなサブタイトルですが、「それは本当に『問題』なのか?」ということです。
ケアマネさんからこんな相談をされました。「Aさんの妻は、『夫は昼間もいつもベッドにいる。全然動こうとしない。体操とか運動しないとだめになる。何とかしてほしい』と言われるんだけど、家でできる体操みたいなのある?」Aさんは家で動かないということがまず問題になってるようです。
最近は自主トレ用のパンフレットも動画もたくさん出ています。臥位~立位さまざまなレベルのものがありますね。まあ、経験上こういう時に、言葉通りに体操を紹介しても実施されないことが多いですね。
問題は状況の中に生まれます。
ケース1:Aさんはかろうじて伝い歩きができるレベル。食事は食卓の椅子でとるけど、それ以外はほぼベッドでごろごろ。活動量が著しく低下しています。この状態では、家で動かないのは廃用症候群を進行させるので「問題」といえそうです。
ただ、「だから体操を!」というのはちょっと短絡的ですかね。長く座っても疲れにくい椅子を用意するとか、テレビを見るとか新聞を読むとか好きなことをベッドから離れてできるような環境整備とかをまず整えてみてはどうでしょう。
ケース2:上記のような動作レベルのAさんですが、週3回通所サービスを利用していて、そこではできるだけ歩いて移動し集団体操やレクに参加して横になることなく過ごされています。
となると様相は変わってきます。家ではゆっくりしていたいと思われているのかもしれません。また、妻が言うほど動いてないわけではないかもしれません。
妻は「朝はさっと着替えて食事を済ませてくれないから、いつまでも朝の家事が終わらない」と不満があり、そのことを言っているのなら、「体操指導」は良い解決策ではないです。やることをやってしまえば、ベッドでゴロゴロしていても問題にはならない。
一見、「問題」っぽく見えることに飛びつかない、じっくりとそのことが起こってる状況を見てみることが大切ですね。西尾さんの投稿は毎回印象的な素敵なイラストがついていましたが、私は絵心も作画技術もなく、ギブアップです。でも、何もないのは寂しいので写真を載せました。内容に関係ないけど・・・。
問題は「ある」のではなく状況の中に「生まれる」、時として「作られる」 その3~誰の問題か?それが問題だ!~
秋山です。大型連休、いかがお過ごしですか?さて、完結編です。
ここで振出しに戻って、最初に起こったことは何かを考えてみましょう。そうです。「入浴介助で抱えてもらう時に首がとても痛い」だったのです。これがAさんの問題だったんですね。
そこから夫のBさんは「歩かせてなかったのが問題→歩行器を再び借りてしっかり歩かせる」、それを聞いたケアマネさん「危険なのに自分の考えを通そうとする夫の頑固さが問題→担当OTから話してもらう」、相談されたOT「足部の保護のため車椅子導入しているのに使われていないのが問題→移乗の練習。医師から歩行のストップをかけてもらう」、依頼された医師「診察していろいろ説明しても聞き入れない夫が問題→前から言っている基本を夫にやらせる」と、元の問題を離れてそれぞれが「問題」を作ってたんですね。
これら一つ一つも問題ではあるのですが、今はそこじゃない。ある問題に対して、それぞれの立場で専門性を活かして協働して解決に向かう、にはなっていない。自分が常日頃感じている問題にすり替わっていってしまった。解決すべきは「入浴時の苦痛」だったのです。
さて、解決に向けて仕切り直し。一番肝心な訪問入浴業者さんに状況を伺います。あちらのスタッフもこまっていたところでした。そこで今更ながら、Aさんの身体状況をOTから説明。スタッフから「担架みたいな補助具もあるんですがどうでしょう」と提案有り、次回試すこととなりました。Aさんにも話を伺い、首が動くと痛いという不安でより硬くなり、さらに痛みの不安が増すという悪循環がありました。
ネックピローでゆるく固定することで「これなら我慢できる」となりました。
Bさんには「歩けなくなるとの心配はごもっとも。足を保護する形で、まず立つ練習をする方法を考えます。入浴はリラックスできるよう、スタッフに任せましょう」とお伝えし、何とか納得していただけました。
Bさんには着替えの介助が難しいという悩みもありました。脱ぎ着の前に行うよう、軽く手足の屈伸のコツを説明。それを可動域訓練指導と主治医に報告(^^;) 痛みの訴え無く、入浴することができました。
この問題の解決方法はいろいろあります。今回やったことよりももっといい方法があると思います。そもそも、早く気づけよ!私!これからは多職種協働がますます重要ですが、かみ合ってないと感じることもあります。そんな時は「それは誰の問題か?」を整理してみると解決の糸口がつかめるかもしれませんね。(終わり)
問題は「ある」のではなく状況の中に「生まれる」、時として「作られる」 その2~で、何が問題だったっけ?~
秋山です。先週の続き、訪問リハビリの事例です。
Aさんは体調不良から臥床時間が長くなり、現在ほぼ寝たきりです。仰臥位の形で拘縮が進み、起き上がりや端座位保持が困難になっています。強い尖足、足趾に潰瘍や壊死があり歩行できなくなっていました。2ヶ月前まで歩行車で室内介助歩行されていましたが、足部への負担が大きく、歩行車は返却し車椅子に変更したところでした。
主介護者の夫のBさんは歩行させたいという気持ちが強く、車椅子は「乗せるのが、かえって大変じゃ」と使用されていませんでした。ベッド上清拭対応でしたが、訪問入浴を利用されることとなりました。その2回目が終わったある日・・・。
ケアマネ「Bさんが、『入浴の時、寝たままふたりでかかえられると、すごく首を痛がって大声出すけぇ、また歩行車を借りて歩かせていいか。本人も歩く方がましと言う』と言われるんですがどうでしょうか」
私「足の状態がよくないし、拘縮や筋力低下もあるから転倒リスクが高く危険ですね。壊死の部分の治療中だから足先への負担は移乗くらいの最小限でないと。車椅子を使えばいいのですが、Bさんはその気なさそうですね。使い方を説明しているんですが。今度、移乗するところをみてもらいます。とりあえず主治医から歩行のドクターストップかけてもらいましょう」
ケアマネ「主治医に伝えますね」
主治医からケアマネとリハ担当(私です)に招集かかり三者でカンファレンス。
医師「で、どうなの。歩くなんて無理でしょう」
私「そうですね、先生から足の治療のためにストップをかけてもらえ・・」
かぶせ気味に
医師「言っても言ってもだめでしょう、あそこは。もっと基本をさせないと。可動域訓練の指導してるの?」
私「なかなか忙しい方なので・・」
明らかにかぶせて
医師「そんなこといってるから、ここまでになっちゃうんでしょう!座れてるの?えっ、ほとんどやってない?もう!まず座位保持。夫にさせるためには?じゃあ、食事の時はしっかり起こして。日に3回ね。それと毎日下肢の可動域訓練させるように。プランたてて報告して」
私「・・・(そんなことできりゃ、今ここに来てないよ!)」
ケアマネ「・・・(ここはひとまず撤退しましょう)」と目で訴えられ、いったん退却。
ケアマネ「Bさんは先生への要望もしょっちゅう変わりますからね。先生も振り回されてるという気持ちがあるんでしょうね。実はこの前の入浴ではBさんが強く言って、訪問入浴の人と三人がかりで歩かせたそうです。それで『できる!』と思ったみたいです」
私「えー、だめですよ。だから足が治らないんですよ。訪問入浴さんも断ってくれればいいのに。車椅子ですよ、車椅子!」 と、車椅子を連呼しながらも、何かおかしいと思いました。
ちょっと頭を冷やして見直すと、この話の流れは変だ、解決になるのか?っていうか、そもそも問題は何だった?続く~
問題は「ある」のではなく、状況の中に「生まれる」、時として「作られる」 その1
秋山です。瀬戸内地方は葉桜となってきました。先週の写真は石見銀山の街なか、桜の向かいには有名義肢装具メーカーの社屋があります。
You tubeチャンネル「カムラーの部屋」に運動問題の捉え方がアップされています。ここではもう少し広げて生活上の問題についてです。
運動障害が同じような状態でも、その人の生活環境や社会的背景によって、生活上の困りごとは違ってきます。左手の薬指の動きが多少悪くなっても私はあまり困りませんが、ピアニストやギタリストには重大な問題となるでしょう。
「歩行困難」と一口に言っても、年代や物理的環境など諸々の状況の違いによって、困り方は変わってきます。「問題」はその人の、その時の状況によって生じてきます。
こうしてみると、何が問題なのかを見極めるのは結構難しい。在宅の方の場合は一層複雑になりやすいですね。ただこのように考えると、ご本人の身体面は変化できなくても周りの変化によって問題も変化していく、解決の糸口がみつかっていくともとれます。
援助する側も多角的な視点が必要となります。一人では難しいことも、多職種協業により解決に近づいていけます。
ですが、時として専門性にこだわるあまり、援助者側が問題を作ってしまうという状態に陥ってしまうことがあります。関わる人たちがそれぞれの視点で問題をとらえるのは有益なことです。
自分の見方が最もよく根本的原因を特定し、一番の根本的解決を導くと思い込み、「これが最大の問題だから、こうするのが正しい解決方法なのだ!」と言い出すとどうなるでしょう。それがぶつかりあったら?「そんな極端なことを・・・」と思われるかもしれませんが、自分の挙げた問題点に対して他のスタッフの反応が鈍い、逆に他のスタッフの挙げた問題点が些末に思えたりする、多角的に見るというよりてんでばらばら、お互い「わかってないなぁ」、など感じたことはありませんか。
さてさて、どうしたものやら。来週に続く~
「足場作り」リターンズ その3「褒める」は上から目線⁈
最近、褒められた覚えのない秋山です(^^;)そう、歳をとると褒められることが少ない。褒められるのは「上の人」からというイメージがあるせいでしょうか。
いざ褒めようとすると意外と難しい。特に仕事上、年上の方に対してとなるとなおさらです。難しさの一つに「偉そうな言い方になっていないか心配だ」があると思います。
患者さんを褒めなくちゃと思うのだけど、どう言っていいのかわからない、「若造が偉そうに」と思われないか?「子ども扱いしおって」と思われないか?できてないのに無理矢理こじつけになってないか?考えれば考えるほど、難しく思えてきます。
コンプリメントcomplimentは「ほめ言葉」と訳されますが、ここでは「ねぎらう」と言った方が理解しやすいと思います。結果を褒めるというよりも、過程をねぎらうということですね。結果を褒めてももちろん良いのですが、こちらが判定を下しているという枠組みにはならないように注意したいです。上手くできたら褒める、できない時は褒めない、ではないのです。
実際、患者さんは難しいことに取り組んでいるわけで、楽ではないですよね。「難しいのによく頑張られましたね」「今日もしっかり運動されましたね」など、苦労をわかっていますよと伝えられると「わかってくれている」と患者さんも思える。上手くできた時は「やりましたね!」と一緒に喜ぶスタンスなら無理なく言葉にしやすいのでは。コンプリメントには「丁寧なあいさつ」という意味もあるそうですよ。
アドラーは、よくできたと褒めるのではなく、ありがとう助かったと感謝を述べるのだ、と言っていますが、まあ、あまり背伸せず、今できることを確実にやっていきましょう。
「またうまいこと言って」と言われてもニヤニヤしてくれてたら、有りですかね。「心にもないことを言って」とムッとされたら言い方を考え直してみましょう。
みなさん、今日も1日お疲れ様でした。よく頑張りましたね!難しいことも最後までやり切りましたね!忙しい中、読んでくださりありがとうございます!
*過去投稿の再掲です(^^;) しかもイラスト間に合わず・・・。
「足場作り」リターンズ その2”コンプリメントは難しくない!”
秋山です。寒いです。
かつてOT学会でコンプリメントについて発表したことがあります。その時に「どう話せばいいか、難しい」と言われることが少なからずありました。なぜ難しいと思うか伺ううちに、意味づけや価値について言わなければならないと思っているせいではないかと考えました。
CAMRでいうコンプリメントでは、意味を説明するとか価値観の転換を図るとかは行いません。患者さんの行動や置かれている状況を、ただねぎらったりほめたりするのです。私がコンプリメントで使っている言葉はシンプルです。「いいですね」「頑張りましたね」「できてますよ」突き詰めればこの3種類くらいです。
これらをいろんな場面で言います。「足がよく上がっています。いいですね」「50回やり通しましたね。頑張りましたね」「え?『右足が出てない』?足先がここまで出てますよ。できていますよ」「初めての運動なのに、よく頑張られましたね」「今日もしっかり運動されましたね。いいですね」など。
成功体験に結び付けるのにも、コンプリメントは有効です。立位課題でふらついても「よく踏みとどまりましたね」「お、チャレンジの結果ですね」とか。できそうな課題と思っても、上手くいかないこともあります。そんな時にも、「初めての課題でここまでできるのはすごいですよ」など、患者さんが「失敗だ、ダメだ」で終わらないような言葉かけを工夫できるといいですね。
また、セラピストの立場か、患者さんの立場か、どちらで言うかで違ってきます。入院初日の患者さんの初回訓練、疲れてこられた患者さんを気遣い、今日はこの辺にしよう、とあなたは考えました。その時。①「もう疲れてますね。今日はここまでにしましょう」と、患者さんを送っていく。②「初日で慣れない中、お疲れになったでしょう。いろいろ動きを見せてくださり、ありがとうございました。少しずつ運動を増やしていきましょう。また明日お願いします」と、患者さんを送っていく。
思いやる気持ちは同じでも、印象は違ってきますね。
背中で語っても伝わりにくい!普通の言葉でしっかり伝えることで良い関係が築けると思います。