運動の専門家って・・・何?(その4)
前回は、セラピスト教育の中で「若い健常者の平地での歩行の形」を「正しい歩行」として基準や目標にするようになると述べました。
学校ではビデオの運動観察によって患者さんの歩行を見ます。学生は「歩き方が変」とすぐに気がつきます。「歩き方は変だけど、安定して歩いている」という評価はなかなかしないものです。教官も「歩き方が問題である。健常者のものとどれだけ違っているか」と健常者の形の違いに焦点を当てがちです。形の違いは見つけやすい。
つまり教官は学生に「麻痺があってもこのような分回しスキルを用いて、安全・安定して移動課題を達成できている」と別の視点を教えることはないし、学生も理解が難しい。「だって格好がおかしいからダメでしょう」と素直に言う学生もいます。
ともかく運動観察は健常者の歩行との形の違いに焦点を当てて学習することになります。教官も学生もその方がわかりやすい。
教科書などもそれを強めます。たとえば分回し歩行は「代償運動」とか「異常歩行」のようなレッテルを貼って説明します。健常者とはやり方あるいは見た目の形が違っているだけのことなのですが、まるでそれが障害の特徴であり、障害の理解であるかのような印象を与えます。
そうすると障害の理解は「姿勢・運動のやり方や見た目の形の違いと理解できる。だから姿勢・運動のやり方や見た目の形を健常者のやり方や見た目に近づけることがリハビリである」といった誤解を学生に与えているのではないかと思います。
実際にそんなセラピストによく出会います。片麻痺の患者さんの歩行を観察しては、「蹴り出しがない」とか「脚をまっすぐに振り出して」とか言って柔軟性を部分的に改善したり、特定の筋群の活性化を図ったりして歩行の修正らしきものをしています。見た目の健常者の違いを単に健常者の形に近づけようと意図しているだけです。訓練は、片麻痺患者さんの歩行のやり方と形を変えることが目的です。
やはり若いセラピストにとってみると、障害とは「異常な形で歩行をする」ことであり、リハビリとは「異常な形の歩行を健常者の歩行に近づけることと考えてしまうのでしょう。
つまり極端に言えば「障害=姿勢・運動の形の異常」なのです。どうもそれ以外の視点を持ちにくくなってしまうようです。これが前回言った、「障害の問題を姿勢・運動の形の問題に矮小化している」ということです。
僕自身も臨床に出た時はそんな感じでした。しかし臨床経験豊富なセラピスト達に接する過程で、それは単に見た目の運動の形のことを言っているだけで、それよりは大事な別の視点があると気づかされます。
たとえば歩行の安全性は?持続性は?そして実現可能な運動変化か?さらに患者さんが自らの生活を送る上で必要な生活課題を達成することができるか?どの程度の困難を伴うか?どんな工夫が患者さんの課題達成を助けるかといった視点で歩行を見ることもできます。
つまり何を問題にして障害を見ていくかということです。姿勢・運動の形はもちろん参考になるのですが、それ以外にも見るべき重大な視点、改善するべき点は沢山あるのです。
でも教える教官にとっても、教えられる学生にとっても一番わかりやすいのは形の問題であり、そればかりが頭に残ってしまいます。
実は僕自身、臨床経験4年ほどで教官になってしまって、そんな安易な授業をしてしまった反省があります。特に教えるのが難しいと、ついつい楽な方法を選んでしまって(^^;)
しかし今考えても学校の授業ではどんなに頑張っても限界があります。どんな人も実際の患者さんを見ながら経験を積んでいく過程で初めて得られる視点や理解があります。新しい視点を身につけるとはそういうことなのでしょう。
職場に経験豊富なセラピストがいればラッキーですが、先輩のセラピスト達が皆揃って「障害とは姿勢・運動のやり方や形の異常である」と考えていると、その矮小化した視点しか持てなくなってしまうようです。まあ、大変なことです。
実際に卒業してからも様々な研修や講習を受けて、職場以外での視点や理解を広げていく必要がありますね。(その5: 最終回に続く)※毎週木曜日にはNo+eに、別のエッセイを投稿しています。 最新の投稿は「『正しさ幻想』はどうして生まれるのか?」 以下のurlから。 https://note.com/camr_reha
運動の専門家って・・・何?(その3)
前回までのお話。
リハビリのセラピストは「運動の専門家だから、患者さんに正しい運動のやり方を教えて」と他職種から言われて悩んでいたところ、「正しい運動感覚入力で脳に運動プログラムを再学習させる」というアイデアを知ってすごく惹きつけられました。
でも実際に見てみると、教科書に載っているような若い健常者の平地での歩き方の形を繰り返して真似してもらうことでした。しかもできないところはセラピストが介助(ハンドリング)あるいはタッピングなどで感覚入力してその形を再現して、それを繰り返す。しかも年単位で、たった一つの歩行のパターンを繰り返す・・・・
見ているとセラピストはまるで人形浄瑠璃の人形使いです。でもセラピスト本人は、運動感覚の入力を通して患者さんの頭の中に運動プログラムを入力しているプログラマーのつもりなのかも知れません。
しかし他人が動かし、他人が入力する感覚を学習しているわけで、セラピストの活動に依存した動きの学習です。つまりセラピスト無しではできない運動の学習です。つまり人形遣いの動きに合わせて動くためのプログラムを入力しているのではないか?
また世の中の環境は多様です。セラピストが目指すべきは、患者さんに若い健常者の歩行の形を再現してもらうことではなく、「状況変化に応じてその場に相応しい歩行の形を柔軟に多様に生み出して適応的に歩く」能力ではないか、ということです。
それでセラピストが考えるべきは、どうやったら「状況変化に応じてその場に相応しい歩行の形を柔軟に多様に生み出して適応的に歩く」ことができるようになるか?ですよね。ただこの問題はこのシリーズの最後でまとめて説明します。
さて、今回問題とするのは、「セラピストが目標とするべき『正しい歩き方の形』なるものがある」という思い込みです。
この思い込みは実は学校で習っているのではないかと思います。
学校では要素還元論を基に、全体の振る舞いはそれを構成する要素の振る舞いから理解します。たとえば歩行不安定という全体の振る舞いがあれば、各部位の筋力や柔軟性などの構成要素を調べて、両下肢の筋力低下があれば、「両下肢の筋力低下が原因で歩行不安定が現れる」と因果の関係で理解します。そうすると両下肢の筋力強化が実施され、問題解決に繋がるわけです。
この前提はまず人体の設計図が頭の中に作られる必要があります。だから学生は解剖学や生理学、運動学を基礎学問として習います。そして頭の中に作られたこの設計図を基に患者さんの運動を観察します。問題があれば設計図を基に因果関係を想定して原因となる構成要素にアプローチする訳です。
でもこれはかなり難しいことです。臨床経験もないし、人体の設計図も習ったばかりです。なかなか観察を基に因果関係を見いだすなんてとんでもなく難しい課題です。
一方で片麻痺患者さんの分回し歩行は、健常者の歩行の形と明らかに違います。左右差が大きく、重心移動も大きく、患側下肢は明らかに健常者とは違う軌跡を描きます。ちょっとコツさえつかめば、誰でも違いを観察することができます。
だから運動の形を区別することは非常にわかりやすいのです。教科書に載っている 若い健常者の颯爽とした歩行や自分たちの歩行の形と比べてみればすぐにわかります。
僕もリハビリ養成校の教官を8年くらいはしていたのでわかるのですが、形で区別することは教官にとっても教えやすいのです。だから教官も安易に形に焦点を当ててしまう(^^;)学生もわかりやすい。そしてこのわかりやすさが「運動の形だけに焦点を当て続ける」原因となります。
「若い健常者のやり方や運動の形」が「正しい運動」としていつのまにか基準になり、どれだけズレているかが「問題になってしまう」のです。「異常なパターン」とか言って、障害を形の問題として理解してしまうのです。
今でも臨床で沢山のセラピストが分回しやその他の歩行をしている患者さんのそばで、「左右差をなくす」、「踵から着く」、「患脚をまっすぐに振り出す」などと指導しているのを見ます。形の違いを言葉で指示して繰り返し、治そうとしています。(昔の自分を思い出します(^^;)) 以上のように「要素還元論の視点」とは別のところで、「障害の問題」を「わかりやすい形の問題」と矮小化してしまうことが問題なのです。
次回はこれをもう少し掘り下げて考えてみます。(その4に続く)
※毎週木曜日にはNo+eに別のエッセイを投稿しています。
最新の記事は「人の運動システムの作動の特徴(その5)『状況性』」 以下のURLから https://note.com/camr_reha
運動の専門家って・・・何?(その2)
前回は、リハビリのセラピストは「運動の専門家だから、患者さんに正しい運動のやり方を教えて」と他職種から言われて悩んでいたところ、「正しい運動感覚入力で脳に運動プログラムを再学習させる」と言われて、「おお、スゴイ!これなら良いじゃん、リハビリ!」と思ったところまでです。
早速僕はそのアプローチの講習会に申込みの電話をしたのですが、「2年先まで一杯だから・・・」と断られてしまいました。 「これは困ったぞ」と言うことで、僕の住んでいる地域で開かれるその手の勉強会・講習会には全て申込み、色々と資料も集めて勉強もしてみました。
ただ勉強会などで実技の実演などを見るとまた疑問が湧いてくるのでした。
一つは「正しい運動感覚入力」というのは、セラピストが動きを口で指示し、できないときはセラピストの手で介助するということだったのです。(介助とは呼ばずに「ハンドリング」が正式名称らしい)また収縮の欲しい筋肉にタッピングを入れて収縮を促したりします。
インストラクターの動きは迷いがなく、患者さんの患側上肢は滑らかに動くのです。会場の反応は「おお、スゴイ!あのぎこちなく、動きが小さかった患手が滑らかに大きく動いている」と好意的です。
日本人はだいたい礼儀正しいのでみんなスゴイ、スゴイで会場の雰囲気が作られます。その中で患者さんも喜んでいるようです。みんなも盛り上がっています。
でも僕はへそ曲がりなのでしょう、インストラクターはむしろ人形浄瑠璃の人形使いのように見えてしまいます。
患者さんの思いとは関係なく滑らかに動いている、いや、動かされている患側上肢。これを繰り返したら健常者と同じ動きになるのか?つまり麻痺が治るのか?
歩行練習もそうで、インストラクターが体幹から重心移動と脚の動きを介助(ハンドリング)して他動的に動かします。
終わってから質問します。「えーと、セラピストが介助して感覚入力を繰り返すと、患者さんの麻痺が治って、健常者の動きになるのですか?どれくらいかかりますか?」
「麻痺が治ると言うより繰り返していくと、健常な動きそのものに近づいていきます。時間は・・・・人によって違いますが、まあ年単位で見ていただくと最初の動きと変わっているのがわかると思います」
その日のインストラクターは珍しく饒舌で具体的にはっきりと答えてくれました。それでも「うーん」と思います。 疑問はいくつも浮かぶのですが、特に気になるのは、プログラム説では筋の収縮のタイミングや強さ、筋群間の協調などが再学習される訳です。でも実際にやっているのは教科書に載っているような健常な若者の歩行に近づけるようなことです。そして歩行動作を「他動的」にやっているのに過ぎません。
それで何を学習しているかというと、セラピストに動かされ、セラピストの感覚入力に対応する運動を学習していることになるので、その動きを出すためにはセラピストの感覚入力が必要ということになって、いつまで経っても独りではその動きは出てこないのではないか、と思います。
だって子どもは大人が感覚入力しなくても、自分から動いて運動感覚入力を経験しているわけです。自から動いて必要な課題を達成して、その運動スキルを発見・学習・発達させているのです。この「自ら動いて必要な課題達成をする」ことこそが運動学習の本質ではないでしょうか?
他人が動かすのはまるで脳をコンピュータの様に、セラピストをプログラマーの様に考えているわけです。セラピストが操る運動感覚で頭の中に運動プログラムを作る?人間はロボットとして考えられているわけです。まあ、変なこと!
また年単位で一つの運動を繰り返して漸く健常者の歩行の形に近づくと言うのだけれど、「健常者のたった一つの歩行の形を繰り返し練習するだけ?あるいは健常者のたった一つの歩行の形に近づくことに意味があるの」ということです。
「正しい歩行練習」とは教科書に載っている若い健常者の歩行の形で、これを再現できることを目標に真似をさせようということです。なんだかモヤモヤします。
世の中は、坂道や階段、狭い通路にアスファルト道路、凍った路面に砂浜、岩だらけの開墾地などと異なった環境を挙げればきりがありません。
健常者はそれらのどの路面でも適切な歩行を柔軟に生み出して適応します。つまりそれぞれの状況に応じて異なった形の歩行を生み出して対応しているわけです。
たった一つの歩行の形を年単位で繰り返して、様々な状況に対応した歩行を生み出せるようになるのでしょうか?
今思うと、むしろセラピストが目指すべきは、患者さんに若い健常者の歩行の形を再現してもらうことなどではなく、「状況変化に応じてその場に相応しい自分なりの歩行の形を柔軟に多様に生み出して適応的に歩く」能力ではないか、ということです。
「他動的に動かして感覚入力する」とか「一つの運動を繰り返す」など、なんだか色々な疑問が湧いてきて期待したものではなかったのです。(その3に続く)※毎週木曜日にはNo+eに別のエッセイを投稿しています。 最新の記事は「『正しさ幻想』はどうして生まれるのか?」 以下のURLから https://note.com/camr_reha
運動の専門家って・・・何?(その1)
このページでは、「どんな立場に立つかで、障害の理解やアプローチは大きく異なる」ということを述べてきました。
「学校で習う要素還元論の立場」か「システム論を元にしたCAMRの立場」かで、障害の理解もアプローチも異なっている訳です。
単純にこの二つの立場を見比べると、お互いに対立して否定し合う、あるいは真逆のことを言っているように見えますが、実は得意とするところが違っているだけです。それで良く見ていくと両者の長所と短所は、お互いの長所と短所で補えるような関係でもあるのです。
「でも、CAMRは学校で習う知識やものの見方にかなり批判的ではないか!」とお叱りを受けることもあるのですが、それは要素還元論という方法論自体を批判しているのではなく、それに伴って生まれる様々な思い込みや勘違い、価値観を批判しているのです。
今回は要素還元論にはどんな思い込みや勘違い、価値観がともなっているのか、そしてその原因は何かを考えてみようと思います。たとえば以下のような説明を聞くことがあります。
「医療的リハビリテーションのセラピストは運動の専門家であり、正しい運動を指導するのが仕事の一つである」
これをどう考えますか?あなたは運動の専門家ですか?運動の専門家って何を知っていて、何をしているの?
僕がまだ新人の頃、「リハビリのセラピストは運動の専門家である。だから患者さんにちゃんと正しい運動のやり方を教えてあげなさい」みたいなことを、他の医療職からも患者さんからも言われたりしていました。今もそんなこと言われてます?
だから僕は歩行介助が少しプレッシャーでした。というのもただ患者さんが転倒しないようについて歩いているだけでは「ダメではないか!専門家らしく、なにか教えたり指導したりしないといけない」などと内心で焦ったものです(^^;)ただ黙ってついているだけでは、仕事をしていないように感じてしまったのです。
それでやたらと口を出したがる。「背筋を伸ばして!」とか「脚をまっすぐ振り出して!」、「足は踵から着いて!」などです(^^;)すると、「頑張ってもできんのじゃ!まずお前が足を治してみろ!そしたらお前の言う通りに歩いちゃる!」と患者さんに怒られたりする(^^;)なるほど、運動の専門家ならそれが当然ですよね。でも、できない・・・
他の患者さんで、注意をすると1-2歩は、指示に従って何とか変化するのですがすぐに元に戻ります。これを何度も繰り返すと、「一々言ったところで無駄なんじゃないか?」と思うようになります。「だって、麻痺があるからできないわけで・・・本人もやろうと努力しながらもできないわけで・・・患者さんだって、頑張ってるのにできないんだから、しつこく繰り返すのは気分良くないだろうな、やっぱり・・・」などと思ったものです。
周りの人達に話すと、「いやいや、繰り返すことによって次第にできるようになる。繰り返しが大事なのだ!これを途中で諦めたら、そこでおしまいだ。セラピストは根気が大事」などと言われてしまいます。
そんな時に「言葉で言ったところで無理だ。運動を変化させるためには、正しい運動感覚をセラピストが入力して『脳というコンピュータにその正しい運動感覚を再学習して』もらえば良いのであーる!」という話を聞いて夢中になりました。
「何だ、これこそセラピストの仕事ではないか!『運動プログラムの再学習!』なんと魅惑的な言葉だろう。これは間違いなくセラピストの仕事を価値のある唯一無二のものにするに違いない」などと思ったものです。
まずは「ただ指示を繰り返しても無駄」と言われてすっきりしました。その代わりに「正しい運動感覚入力による再学習」だと説明してきます。これもなんだか新しいアイデアの感じがして好ましく思ったものです。(後にこのアイデアは運動コントロールの「プログラム説」と呼ばれることを知ります)
ただこれは新たな困惑と疑問への入り口だったわけです(^^;)(その2に続く)※毎週木曜日にはNo+eに別のエッセイをアップしています。最新の記事は、「リハビリのセラピストはプログラム説がお好き?」https://note.com/camr_reha/n/n839fe9ed4275