脳はコンピュータ?

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 西洋医学では、人の身体を構造とそれぞれの各組織・器官の働きから理解します。そして「構造の悪いところや働きの悪い器官などを探して、そこを治す」というのが基本的な考え方ですね。
 もちろんこのアプローチは非常に有効です。このアプローチによって医学は世界に認められたのでしょう。
 学校で習うリハビリももちろん同じように、「悪いところを探して治す」というのが基本になっています。それで脳性運動障害では、「壊れた脳細胞が悪いのだから壊れた脳を治す。あるいは壊れた脳の機能を他の壊れていない脳細胞に肩代わりしてもらう」というアプローチが、日本でも60年以上前から目標になっています。
 しかし結果的に、麻痺も治らないし、それらのアプローチで元の健康な運動が回復するわけでもありません。リハビリでは、壊れた脳細胞を治したり、他の細胞に肩代わりさせて機能を回復させることは残念ながら無理のようですね。
 でも未だにセラピスト二人がかりで患者さんを立たせて全介助で歩かせるアプローチなども行われているようです。「様々な運動感覚が脳に栄養として届き、新たな運動学習が行われる」という理屈を言って脳細胞や脳の機能を回復させようとするアプローチが行われたりしています。
 その理屈は言い換えると、「運動学習とは正しい運動の形を憶えて再現すること」と考えているようです。また「運動感覚の入力」は、コンピュータにキーボードからブログラムを入力するように、「身体を動かせばその動きの感覚がプログラムとして脳に作られる」と考えているようです。
 脳をコンピュータ、手脚をキーボードのように理解しているようですね。
でも実際にそれで入力されているという運動感覚は、「他人が無理矢理動かしている身体」の感覚です。この他人が無理矢理に動かす感覚で、自分から動いてその歩きの形を再現するようになるとはとても思えません。元々入力している感覚が全く違うのです。自分で動かしている運動の感覚ではないのですから。
 むしろ想像してみてください。自分では上手くコントロールできない身体を二人がかりで立たされるのです。むしろ「怖い」と思うのではないでしょうか。よく知らない人間2人に立たされて無理矢理片脚ずつ前に動かされるのです。怖くて知らず知らずのうちに体に力を込めて体をより硬くして身を守ろうとします。これでは体が硬くなりすぎて、ますます自分では動けなくなってしまいます。
 セラピストは体の動きを教えているつもりでも、体をこわばらせて恐怖に耐えることばかり学習するのではないでしょうか。
 人を機械のように理解すること自体は、いろいろな利点もあるのですが、「脳をコンピュータとして理解する」のはとんでもないことです。普通「コンピュータの立場になる」とは考えないように、患者さんの立場になって考えることもできなくなってしまうのでは?(終わり)

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「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること」?(その5 最終回)

目安時間:約 4分

 ここまでで、本来人の運動システムは、「状況に応じて運動の形ややり方を変えて課題達成・維持する」という「状況性」の作動をすることが分かりました。この状況性の作動を支えるのは、「人の運動が無限に変化する仕組み」です。
 そしてその仕組みとは、有り余るほどの豊富な運動リソースと適切な運動認知、そしてそれらから生まれる課題達成のための方法である「運動スキル」です。ここまでで改善可能な身体リソースはできるだけ改善すること。利用可能な環境リソースをできるだけ工夫して増やすことを述べました。
 また同時に運動認知を適切化することも説明しました。環境内で多様に多彩に動くことで運動認知は適切にアップデートされます。
 その上で必要なのが、適切な運動課題を通して運動スキルを生み出す「運動スキル学習」を進めることです。増えた筋力や柔軟性、補装具や杖などの運動リソースを適切な運動認知によって、必要な課題達成のために適切に利用するための新たな運動スキルを生み出す過程です。
 大事なポイントは2つあります。1つは、「セラピストは患者さんに適切な運動スキルを直接教えることはできない」ということです。
 こう言うと「セラピストは教えることができる!」と反論されることがあります。「アスリートだって優秀なコーチからやり方を教えてもらっているではないか?」といわれます。でもそれは間違いです。
 優秀なコーチは「アスリートが新しい運動スキルを発見、実施できるように適切な運動課題を提示している」のです。たとえば「脚を振り出すときは、膝もピンと伸びるように」などです。ピンと膝を伸ばすというやり方ではなく、課題として提示しているだけです。「四頭筋を八分程度収縮させて・・・」などというのはナンセンスです。その人の体の使い方はその人にしか分からないからです。
 つまり運動スキルを創出するということは、その人自身が利用可能な運動リソースを探索して、その使い方を試行錯誤し、適切な課題達成方法である運動スキルをその場で発見、熟練するしかないのです。
 2つ目のポイントは、セラピストの仕事は、適切な課題設定をして、患者さんが適応的な運動スキルを発見するためのお手伝いをすることです。
 運動スキルを発見するのは患者さん自身なので、そのために必要なのはセラピストが、適切な運動課題を工夫、設定することです。運動スキルは適切な課題を達成する経験から生まれるからです。その条件は「課題がその人にとって意味や価値があり、なんとか達成可能である課題」であることです。
 またセラピストは過去の経験から、適切なアドバイスをすることはできます。たくさんの患者さんが適応的な運動スキルを生み出す場面を見ることによって、どのような小さな動きや課題が患者さんの課題達成に繋がるかを見ているからです。セラピストはそのような小さな知識や経験を蓄えておく必要があります。
 もう一つ、患者さんの発見した運動スキルを洗練、熟練するお手伝いができます。たとえば患者さんの発見した「ぶん回し歩行のスキル」をより安全に、より速く、より効率的にできるように導くことは可能です。
 簡単にまとめると以上のようになります。患者さんの必要な生活課題達成力を改善するためには、改善可能な運動リソースを増やしながら、適切な運動認知にアップデートすること。そして適切な運動課題を提示して運動スキル学習を進めることです。
 運動学習は決してセラピストが理想とする形ややり方を患者さんに押しつけて繰り返すことではありません。世の中のさまざまな環境内で、生活課題達成力をより改善することが運動学習の目標だと思います。(終わり)

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「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること」?(その4) 

目安時間:約 5分

「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること」?(その4) 

 前回は「障がいがある」ということは、「身体リソースが貧弱になり、利用可能な環境リソースも貧弱になる。そして動きの量や多彩さが減ることで運動認知も不適切になり、生み出される運動スキルも貧弱になって、必要な生活課題達成が困難になること」と説明しました。
 そうするとリハビリの目標がはっきりしてきます。第一に「改善可能な身体リソースはできるだけ改善すること。そして利用可能な環境リソースをできるだけ工夫して増やすこと」と述べました。特に身体リソースを改善することと環境リソースを工夫し増やすことは一般にリハビリのセラピストはよくやっていることです。
 必要な生活課題達成のための多彩で実用的な運動スキルは、運動リソース、運動の資源が豊富であればあるほど創造されやすいのです。
 さて運動を無限に変化させる能力を構成する2つ目のものは、「適切な運動認知」です。たとえば健常者は、「目の前の幅50㎝の溝を安全に渡れるか?」と聞かれると多くの人が実際にやらなくても「渡れる」という予期的結果が分かるはずです。中にはいつもなら渡れるけど今日はハイヒールだから無理」と判断するかもしれません。適切な運動認知があればその場の状況からやらなくても結果は分かるのです。
 またできないと判断しても、「でも溝の向こうから手を握って支えてもらえれば渡れる」と答えるかもしれません。つまり体や環境の利用方法が想像できるので予期的に結果が分かるし、上記のように「予期的に課題達成のやり方」を生み出すことができるのです。
 もう一つ、この運動認知は常に体を使い、環境内のいろいろなものを操作したり、環境内で多様に動き回ることによって、適切にアップデートされます。
 風邪などをひいてしばらく寝込んだら、体が硬くなったり、力が出にくくなりますね。この状態でいきなりいつものように溝を渡ろうとしたら、力が入らずに落ちたりつま先を引っかけて転んだりします。
 つまり常に色々に動いて使って初めて運動認知は適切にアップデートされるものなのです。風邪で寝込んだら、その場で少し色々動いてみると、いつもより慎重に安全に溝を渡るための運動スキルが生み出されるはずです。
 片麻痺のように、身体の半分が弛緩状態になるような非常に大きな身体変化が起こると、筋力などの身体リソースは広範囲に貧弱になります。すぐには動けないので体がどのように変化したかの運動認知をアップデートすることもできません。よく見知っていた体が未知の身体になってしまいます。
 健康だった頃のやり方、運動スキルは役に立たなくなります。その結果、それまでできていたことができなくなります。未知の体では適切に動けないのです。
 だから変化した体で、実用的な運動スキルを新たに創造する必要があります。そのために、改善可能な身体リソースはできるだけ改善します。利用可能な環境リソースは工夫してできるだけ増やします。
 そして同時に運動スキルを生み出すための適切な運動認知にアップデートする必要があるのです。どのように行うかというと、基本的には様々な身体活動や身の回りの利用可能な環境リソースを探して使ってみることで行われます。
 「自分の体に向き合う」ために、特定の身体活動を集中して繰り返すことをするセラピストもいますが、「同じことを何度も繰り返さないと理解・実行できないほど運動システムは低性能」と考えておられるようです。でもこれはむしろ逆効果です。
 人の体は意外に高性能です。少し動いたり触ったりするだけで色々理解します。できるだけ多様な環境・状況の中で、できるだけ多彩な動きを生み、周りのものに触れて利用する活動を通して、「自分の体と環境内の様々なものとの関係性を理解すること」こそが運動認知には重要です。体の動きを通して環境を知り、環境を通して自分の体のことを知っていくのです。(その5に続く)

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「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること」?(その3)

目安時間:約 4分

「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること」?(その3)

 さて、前回は人の運動システムには「状況性」という作動の特徴があることを述べました。状況性とは「人の運動システムは無限の状況変化に応じて運動を無限に変化させて、できるだけ適応的に課題達成しようとする」という作動でした。

 つまり人の運動システムは元々無限に運動変化を起こす能力があるということです。 では患者さんをこの状況性の視点で見るとどうでしょう?片麻痺患者さんは室内を安定して歩けても、アスファルト道路や草地、砂利道では不安定になられる方も多いです。食堂の椅子からは独りで安全に立ち上がれるけれど、ソファからは独りで立てないこともあります。

 つまり状況変化に上手く対応できないのです。「状況性の作動が低下している、あるいは貧弱になっている」と言えます。運動システムが無限の運動変化を起こせなくなっているのです。「状況性の低下」が運動障害の一つの特徴なのです。 そこで「どうして健常者は無限の運動変化を起こすことができるのか?」と考えてみましょう。

 この「無限に運動変化を起こす能力」はCAMRでは3つのことから成り立っていると考えています。

 一つは「運動リソース(運動の資源)が豊富である」ということです。運動リソースには、「身体リソース」と「環境リソース」の二種類があります。 身体リソースは身体の備えている運動のための資源で、身体そのものや身体に備わる能力や性質である筋力、柔軟性、持久力、感覚などがあります。環境リソースは、環境を構成する大地や構築物、水塊(池や川、海など)、道具、他人、動物などです。また環境の備える性質である重力や明るさ、温度、風なども含みます。身体リソースが豊富だとこれらの環境リソースを上手く利用できるのです。

 2つ目は「運動認知が適切である」ということです。運動認知は、運動リソースの意味や価値を知り、その利用方法についての創造の能力です。言い換えると「必要な運動課題達成のための運動リソースの利用方法」である「運動スキル」を創造する能力です。

 よく暢気に「筋力をつければできるようになる」と言うセラピストがいますが、とんでもない誤解です。力は単に力に過ぎません。その力や柔軟性、持久力などをどう使うかという運動スキルがなければ、力だけでは何もなしえないのです。

 そして3つ目がその運動スキルです。人の運動システムが無限の運動変化を生み出して、適切な課題達成方法を創造できるのは、「豊富な運動リソース」と「適切な運動認知」によって「適切で柔軟な運動スキルが多彩に生み出される」ことによって可能になるのです。

 この視点から「障害がある」とということを考えてみましょう。「まずは身体リソースが貧弱になり、利用可能な環境リソースも貧弱になります。また活動量の低下や多彩さの低下で運動認知も貧弱になり、適切で多様な運動スキルが生み出せなくなります。その結果、必要とする生活課題が達成できなくなることが障害があるということ」です。

 そのように考えるとリハビリの目標は明確になりますね。まず第一に改善可能な身体リソースはできるだけ改善すること。次に利用可能な環境リソースをできるだけ工夫して増やすこと。たとえば「足が弱ったら車椅子を使う。両腕も弱ったら電動車椅子を使う」のようなことです。そのように環境リソースを工夫して行くと、移動という課題を達成できるわけです。

 運動リソースは「運動の資源」ですから、資源はできるだけ豊富な方が、より実用的な運動スキルをできるだけ多彩に生み出すことができます。そして状況性の作動をより強める基礎になるのです。

 さて、この続きは次回に。(その4に続く)

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「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること?」(その2)

目安時間:約 5分

 今回は、まず簡単に学校で習う運動システムのことを説明します。

 学校で習う人の運動システムでは、人を構造と各器官の働きで理解します。筋肉は力を生み出し、骨と関節は生まれた力に支持と方向性を与えます。感覚神経は感覚を中枢に伝え、運動神経は脳の命令を各身体部位の筋肉に伝えます・・といった感じです。

 この理解の仕方は、人の体を機械のように理解することです。たとえば歩く時に片脚を振り出すのは、その片脚の股関節を屈曲させる筋肉を働かせるので脚が振り出されると理解できます。それはそれで有意義です。セラピストにとっては非常に役に立つ視点です。

 ただ人の体をあまりに機械のように理解してしまうと変な誤解も起きます。 たとえば股関節を屈曲させるのは「股関節の屈筋である」と理解すると、「股関節の屈筋を働かせて脚を振り出すのが正しいやり方である」などと思い込んでしまいます。

 そして股関節の屈曲が麻痺で働かなくなる人がいます。そのやり方では脚が振り出せません。普通麻痺で股関節の屈曲の筋が働かないなら、健側の軸足を中心に体幹を回旋させて、麻痺の脚を振り出すことができます。いわゆる「ぶん回し」の歩行です。

 そうするとセラピストはその振り出し方を「代償運動である。異常歩行である!」と決めつけます。健常者の平地の標準的な歩き方ではないからです。そして異常歩行だから「正しい歩行を学ぶ必要がある。正しい歩行を繰り返して脳に憶えさせるのだ」という理屈が展開されるわけです。こうしてひたすら正しいとする一つの歩き方を長い間に渡って繰り返すことになったりします。

 でもいつも疑問に思うのです。「麻痺のある体で健常者と同じような歩き方ができるのか?それにそもそも健常者と同じように歩かないといけないのか?」それに麻痺があるのが原因なのだから、「まず医療が麻痺を治すべきだが、麻痺も治せないのになぜそんな無理な要求をするのか?」と。

 機械には確かに「正しい運動」があります。設計者が意図したとおりの運動です。人を機械と見ていると、健常な標準的な動きが正しい運動で、「正しい運動をしていないので正しい運動を憶えることが治すこと」と考えてしまうのかもしれません。

 さらに欧米の医療に関する思想には、デカルト以来の「人間機械論」という思想が根底に流れていると言います。何かというと「人は神が作った機械である」という考え方です。だから「神の意図した通りの普通の歩き方が正しいのだ」ということなのでしょう。

 でも人は機械ではありません。人は状況によって運動の形ややり方を無限に変化させて、適切な運動を生み出すものです。

 健常者が歩くということを考えてみましょう。平地を普通に歩いていても、氷の上では小股でヨチヨチと歩きます。狭い通路は横向きで歩きます。きつい斜面を登るときは両手も使います。水溜まりでは濡れないようにつま先立ちで歩きます。つま先で歩くのはリハビリでは「尖足歩行」と呼び、健常な形ではないとされます。でも健常者は必要に応じて普通に尖足歩行をします。田んぼを歩く時は泥から足を抜く時に下垂足の形で抜き、膝も高く挙げます。これはリハビリでは「鶏歩」という異常歩行の形です。これまた健常者は必要に応じて適応的にそれで歩きます。

 もし「正しい歩き方」があるとすれば、「健常者の標準的な『形』の歩き方」ではなく、「状況変化に応じて適応的に形ややり方を変えてできるだけ安全、効率的なその人らしい歩き方」ということになるのです。

 実際に世の中の環境や状況は無限に変化しますので、適応的に歩行を維持するためには歩行の形ややり方も無限に変化する必要があります。実際、人の運動システムは「無限の状況変化に応じて運動を無限に変化させて、できるだけ適応的に課題達成しようとする」という作動の特徴を持っているのです。CAMRではこの作動上の特徴を「状況性」と呼んでいます。

 だから麻痺になったとしても麻痺があるなりに適応的に自分なりの歩き方を見つけて歩くのが自然のことなのです。「異常歩行」などというのは、努力する患者さんに失礼な言い方です。

 そして「たった一つの正しいとされる運動の形を憶えて、それを再現する」やり方は、人の運動システムの「状況性」という作動上の特徴に全く相応しくないやり方なのです。 次回は「状況性」を基に、「CAMRではどのようなリハビリを行うか」について考えてみたいと思います。(その3に続く)

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「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること」?(その1) 

目安時間:約 5分

「運動学習」は「運動の形ややり方を憶えて再現すること」?(その1) 

 セラピストが患者さんの体を触り、動きを導いています。 「良いですね!もう一度動かしてみましょう・・・良いですね!」などとセラピストが言います。そうやって患者さんは何度もその動きを繰り返します。

 運動の内容は患側下肢の振り出しだったり、立ち直り反応だったりと色々です。手のリーチのやり方なんてのもあります。いずれにしても見た目の形ややり方を触ったり言葉で導いてそれを繰り返します。

 よく見る光景ですよね。

 いかにもセラピストが「運動のやり方」を教えている感じです。きっと周りの人も、「セラピストが患者さんにやり方を教えているのだろう」と思うのでしょう。

 ここでは患側下肢の振り出し方を教えているとしましょう。そしてセラピストの指導する振り出し方で歩かれます。その後、訓練室を出て患者さんが独りで歩き始めると、また結局元の歩き方に戻ってしまいます。セラピストが手を添えて指導し、見つめてフィードバックしているときの教えた動きは消えてしまいます。

 人の運動システムにとっては、安全で効率的な動きが選択されることが自然です。セラピストの指導する動きは、できたとしても効率的ではないので選ばれないのでしょう。自然のことです。

 どうしてセラピストは、患者さん一人では再現されないそのやり方を指導するのでしょうか?しかも時として、変化なしに何年にも渡ってそれを指導しているセラピストもいます。

 セラピスト、あるいは患者さんの思う理想の歩き方を目指しているのでしょうか? たとえ患者さんの運動システムにとって効率的ではなくても、何度も同じ運動を繰り返せば、やがて脳内にその運動を実施するプログラムが作られて自然に「できるようになる」と信じているのでしょうか。

 ただ疑問なのは、「人の脳はそんな単純なことをやっているのか?」ということです。つまり「一つの運動の形ややり方を繰り返して憶えて、それを再現する」という単純なことをやっているのか、ということです。

 たとえばこれは小学校の運動会で行進の練習をするようなものです。実際に行進の場面になると皆胸を張って腕や脚を大きく振って歩きます。運動会の行進ではこれが正解の歩き方だからです。繰り返し練習して、子どもたちは適応的に歩きますので練習の効果があったと言えます。

 でも普段子どもたちはそれぞれに個性的な歩容で歩いています。誰も胸を張って手脚を大きく振って歩いたりしていません。状況に合わせて適応的に歩き方や歩容を変化させて歩いています。自然のことです。

 実際に患者さんもそうで、リハビリ場面ではセラピストの要求する歩き方で歩くことが適応的なのです。でも訓練室を出て、独りで歩くときには自分らしい歩き方で歩くことが自然なのです。患者さんの運動システムは、常に患者さんにとって一番安全で効率的な歩き方を選択するからです。

 世の中の環境や状況は変化に富んでいます。人の運動システムはその状況の変化に応じて歩行を適応的に維持するために、もっとも相応しい歩行スキルを生み出して、調整し、適応しているのです。

 だからたった一つの歩き方を正解として繰り返し、再現する練習をしてもあまり意味がないのです。(全く意味がないわけでもないのですが・・) 運動学習で必要なのは、世の中で出会う様々な状況変化に対応して適応的な運動スキルを生み出して必要な課題を達成する術(すべ)を学ぶことにあります。

 CAMRでは、実際の生活で必要な生活課題を達成するのは、柔軟で実用的な「運動スキル」と考えます。それで従来考えられていたような運動の形ややり方を繰り返す「運動学習」とは区別するためにわざわざ「運動スキル学習」と呼んでいます。

 今回のシリーズでは、CAMRの考える「運動スキル学習」についての説明や検討をしたいと思います。(その2に続く)

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異常歩行は誰の問題?その3

目安時間:約 4分

異常歩行は誰の問題?その3 

 前回は人の運動システムの作動の特徴の一つ、「状況性」からぶん回し歩行を考察してみた。片麻痺患者さんは半身に弛緩性麻痺が生じるという状況変化に対応して、歩くためにぶん回し歩行という新しい歩行スキルを生み出して歩行の機能を獲得・維持しているので、状況性という作動の特徴は失っておられない、と説明した。

 今回はもう一つの運動システムの作動の特徴である「自律性」について説明したい。

 人の運動システムには、その人にとって必要な運動課題を自律的に達成しようとする作動がある。「自律的課題達成」という作動である。

 たとえばお腹が空くと自然に食べ物を探したりする。町中を歩いている時、お腹が空いていない時は興味のあるものに自然に注意が向くが、一旦お腹が空いてくると自然に食事処の看板に注意が向く。また何か正体不明の危険が迫っていると感じたときには、体が自然に逃げる体勢をとるし、どんな危険かに興味があると逆に留まってその正体を探索しようとする。

 一方、腓骨神経麻痺になると下垂足になり普通に歩こうとするとつま先が床に引っかかって危険なので自然に膝を高く挙げてつま先が床に触れないように鶏歩という歩行スキルを生み出して問題解決を図る。腰痛ヘルニアになると、動くと疼痛が生じるので脊柱は逃避性の側彎が生じ、体幹の筋肉を収縮して固めてできるだけ痛みが出ないように一体になって動く。失調症では、重力と床の間で上手く体をコントロールできないという問題(基礎定位障害)が生じてバランスを崩しやすくなるので、スタンスを広くとって基底面を広げて倒れにくくするという問題解決を図る。

 いずれも本人の意識とは関係なく、運動システムが課題達成のために自律的に問題解決の作動を起こす。これを「自律的問題解決」と呼ぶ。そして「自律的課題達成の作動」と「自律的問題解決の作動」の二つの作動を合わせて「自律性」と呼ぶ。

 だから片麻痺患者さんでも弛緩性麻痺で患側下肢が振り出せないので、健側の上下肢体幹を中心にぶん回し歩行という歩行スキルを自律的に生み出して問題を解決して歩行という課題を達成しようとするわけだ。

 従って脳卒中片麻痺患者さんでは「状況性」と「自律性」という両方の作動の特徴が失われていないことが分かる。

 こうしてCAMRの視点から見ると、患者さんは生まれながらの「運動問題解決者」であり「運動課題達成者」なのである。

 私たちはセラピストの立場から患者さんの歩行を「異常歩行」だとか「正常歩行」などと評価しているが、患者さんにとってはどうでもよいこと、余計なお世話でもある。特に「異常」などという言葉は害ばかりあって一利もない。患者さんは異常歩行という悪い歩行を生み出しているのではなく、「状況変化に応じて課題達成のための新たな歩行スキル」を努力して生み出しておられるだけである。

 またセラピストの教育においても害がある。異常歩行といわれると、セラピストは「悪い歩行の形だから矯正しないといけない」と単純に思い込んでしまう。実は僕も若い頃そう思っていた。そうして、生み出された歩行スキルの意味や価値などは考えずに、ひたすら「矯正しよう、治そう」と努力しては失敗してしまう。挙げ句の果てに自分がまだ未熟だからと自分を責めたり、患者さんにやる気がないなどと患者さんのせいにしたりしているのをたくさん見てきた。

 麻痺のある体でなんとか適応的に歩くために、患者さんが生み出したのがぶん回しの歩行スキルである。できれば学校教育の中から「異常歩行(運動)」という間違った、悪いイメージを伴う用語は使わないようにした方が良いと思っている。

 次回はこのシリーズのまとめです。(その4に続く)

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異常歩行は誰の問題?その2

目安時間:約 4分

異常歩行は誰の問題?その2

 前回も述べたように、そもそも見た目の形ややり方が正常歩行から逸脱しているだけで、「異常」だと言ってしまうのは問題である。というのも「異常」という日本語としても非常に強い否定的、悪い意味の「ラベル」を貼ることになるから。

 今回は患者さんの生み出した歩行、たとえば「ぶん回し歩行」は、実は正常な歩行の一種ではないか、と提案したいと思う。

 そこでまずは健康な若者の歩行を観察してみよう。若者は明るく広い廊下を普通に歩いている。しかし真っ暗闇の中では両手を前に、そして片脚も前に出して彷徨(さまよ)わせて障害物を探しながら少しずつ進む。

 人混みの中では、横向きに歩いて狭い隙間を進んだり、前から迫ってくる人を後に下がって横向きになり進路を譲ったりする。

 健康な若者とは言え、いつも同じように歩いているわけではない。大好きな恋人に振られた直後は、背中を丸めて両肩を落としトボトボと歩く。逆に良いことがあると弾むように歩いたりする。前から怖い犬が来ると緊張してぎこちなくなる。

 丸太の一本橋では両手を広げてバランスをとりながら横向きに、あるいは正面から綱渡りのように進む。

 凍っている路面では、背中を丸めて足下を見ながら滑らないようにヨチヨチと進む。自然に両手がほんの少し前に出てバランスをとる。パーキンソン病の歩行の形にも似ている。

 浅いが広い水溜まりがあれば、靴が濡れないようにつま先立ちになり、浅いところを探しながらつま先立ちで歩く。これは尖足歩行の形である。

 田んぼの中を進むときは、片脚を泥から引き抜くのにやはり尖足の形になる。背屈位では泥から引き抜くときの抵抗が大きいからだ。さらにつま先まで泥から引き抜くために膝を高く挙げることになる。これは腓骨神経麻痺で下垂足があるときの鶏歩の形である。

 若者の片脚に重い重垂ベルトを巻くと、最初は脚の力でまっすぐに振り出すが、やがて疲れるので体全体で振り出すようになる。これは片麻痺患者さんのぶん回し歩行に似ている・・・・ どうだろう、こうして見ると健康な若者は、環境や状況の変化に応じて歩行の形ややり方を適応的に変化させている。環境や状況の変化は無限にあるので、若者の歩行の形も無限に変化する訳だ。健常な若者の歩行なので全ての形が正常歩行と言えそうだ。

 学校の教科書では、見た目で若者の平地での標準的な形を正常歩行と決めている。

 一方CAMRでは、人の運動システムの作動の特徴に焦点を合わせる。そうすると上述のように人の運動システムには、「環境や状況の変化に応じて、形ややり方を変えて、 適応的に歩行の機能を生み出し、維持する」作動の特徴があることが分かる。

 この作動の特徴はCAMRでは「状況性」と名づけられている。つまり正常歩行とは、歩行の形ややり方ではなく、「状況性」という作動の特徴を示しているかどうかである。

 そうすると片麻痺患者さんは「半身に麻痺が起こるという状況変化の中で、『ぶん回し歩行』という歩行スキルを生み出して適応的に課題を達成するという状況性」を示しているとも言えるので、ぶん回し歩行はCAMRの定義では正常歩行の一種と言える訳だ。

 次回はもう一つの作動の特徴からぶん回し歩行を評価してみようと思う。(その3に続く)

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異常歩行は誰の問題?その1

目安時間:約 4分

異常歩行は誰の問題? その1

 異常歩行は、正常な歩行の形やパターンから逸脱した歩行のことらしい。歩容(歩行の形)が左右非対象であるとか、歩隔(足と足の間)が広いとか、ふらついているとか、足の振り出し方が違うなどがその例となる。
 では正常な歩行の形やパターンとはなんだろうか?どうも教科書を見ると、健康な若者が颯爽と歩いている時の歩行の形が正常歩行として挙げられているようだ。どうも僕のように猫背でポケットに手を突っ込んでダラダラとすり足で歩いていると「正常歩行」と認められないらしい(^^;)だから僕も異常歩行をしている?
 もちろん身体の異常や問題は歩行の形にも表れるので、歩行の形ややり方を標準的な歩行の形と比べること自体は有意義であることに間違いない。
 だがそもそも見た目の形ややり方が正常歩行から逸脱しているだけで、「異常」だと言ってしまうのは問題である。というのも「異常」という日本語としても非常に強い否定的、悪い意味の「ラベル」を貼ることになるから。
 考えてみてほしい。片麻痺の患者さんは障害直後から半身に弛緩麻痺があり、思うように動けない。それでも試行錯誤して自分なりに歩くためのやり方を身につけられたわけだ。汗と努力の結晶と言っても良いものだ。
 だがセラピストから「それは異常な歩行ですね。治しましょう」などと言われたらどんな気持ちになるだろうか?かなりやるせないと思う。そんな場面を何度か見てきた。もちろん「異常」という強い言葉を簡単に口にするセラピストはそんなにはいないだろうとは思っている。
 ただセラピストにとっても「異常」という言葉の影響は大きい。なんだか無条件に「修正、あるいは矯正しないといけない」と思ってしまうのではないか。
 実は僕自身がそうだった。このことはいろんなところで書いてきたが、初めての実習に出たときの今から40年以上も前の話である。
 ある片麻痺のおじいちゃんを担当することになった。初めての実習生にとっては何もかもが不安である。何をするべきかも分からない。霧の中を手探りで進むようなものだ。
 でもそのおじいちゃんは典型的なぶん回し歩行をされていたので、僕はすぐそれに跳び付いてしまった。心の中で「異常なパターンだからそれを治すべきだ」とやるべきことが見つかって安心したものだ。
 それで早速、「脚はできるだけまっすぐに出してみましょう」と偉そうに指示をする。「よしっ!」とおじいちゃんはまっすぐに出そうとするがその努力は1回で終わって、元のぶん回しに戻ってしまう。結局、これを何度も繰り返してしまうことになる。
 普段はとても優しくて気の良いおじいちゃんだった。僕はそこに甘えていたのだろう。
 そしてある日、ついに突然おじいちゃんが立ち止まり、僕に向かって怒鳴ったものだ。「よーし、分かった!お前の言う通りにしちゃろう!じゃが、その前にわしの脚を治せ!やれと言われてもできんのんじゃ!治ったらいくらでもお前の言う通りにしちゃるわい!」と大きな声で怒鳴られた・・・
 全く言われる通りで、ぐうの音も出なかった。それにそもそも指示しただけでできるものなら誰も苦労はしないわけだ。(これがきっかけで僕はその当時、「麻痺を治す」ことを主張するアプローチにしばらくの間向かうことになるのだが、まあ、それは別の話)
 ともかくそのおじいちゃんに怒られたおかげで、僕はその後ずっとこの件について考えることになったのです。(その2に続く)

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患者さんの振る舞いを観察すること その3(最終回)

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 CAMRでは、健常者や障害者の運動の振る舞いを観察することで、人の運動システムの作動の特徴を明らかにすることを目指してきました。
 前回説明したように「状況性」という作動の特徴は、豊富な運動リソースと多彩で柔軟な運動スキルを生み出す構造によって支えられています。障害を持つということは身体リソースを失ったり貧弱になったりすることです。そうすると利用可能な環境リソースも貧弱になり、それらを利用する運動スキルも貧弱になります。そうすると「必要な様々な生活課題を達成できなくなる」ことが障害を持つと言うことです。
 だからリハビリでは、身体リソースをできるだけ豊富にすること、環境リソースを工夫しできるだけ増やすこと、そしてそれらの運動リソースを用いて必要な生活課題達成するための運動スキル学習がリハビリで行う基本的な方針だと説明しました。そしてこれはどんな障害でも関係なく、同じ方針でアプローチします。
 どんな障害であれ、運動リソースが貧弱になり、運動スキルも貧弱になって生活課題達成力が低下あるいは失われるからです。
 もちろん障害毎に運動リソースの増やし方や運動スキル学習の進め方に違いは出てきます。特に脳性運動障害では、弛緩性の麻痺の程度や範囲が広いため、患者さん自身の自律的な問題解決の作動が多く見られます。
 従来の学校教育では、人の運動システムを構造と各器官の働きから理解するという、機械と同じ視点で理解します。機械はもちろん故障が起きても、自分でなんとかしようとはしません。そのため人の運動システムで障害が起きた時に、システム自身の作動で問題解決を図っているなどということは想像もできないのでしょう。だから障害後の現象を全て「症状」として捉えてしまう傾向があるのだと思います。
 でも生物では、問題が起きるとそれを何とか解決して必要な課題を達成する、そして生存のための問題解決をできる範囲で図ることは当たり前のことです。生物ができることをしないでただ死を待つなんて考えられません。この生物としての活き活きとした運動システムの作動を理解していないのが現状の学校教育の問題点です。
 たとえば頸椎の伸展に関する筋肉は23対あります。頸を伸展するのにどうしてそれだけの筋肉が必要なのかは構造と各器官の働きからでは理解できないのです。たとえば肘の運動を屈曲・伸展だけで理解するならロボットの様に屈筋・伸筋が一つずつだけあれば良いのです。側屈や回旋が同時に起こるなら、それぞれに一対あれば良さそうなものです。でも実際に頸部の運動は、無限の状況変化の中で、体幹と頸部の無限の動きに応じて適切に頸部の位置を保持するために必要なのだと考えると、決してそれは多すぎるとは言えないわけです。
 また平面関節の動きは無限に生じうるのです。自由度2の関節、平面上で一点をとる可能性は無限にあるからです。人の関節はほとんど自由度2か3の関節です。つまりこれだけでも無限の動きを生み出すわけです。機械のようにほとんどが自由度1の動き(直線上を往復するあるいは軸の回りを回転する等)だけで構成されているわけではありません。
 まあ僕の言いたいことは、構造と各器官の機能というロボットを見るような視点だけで人の運動システムを理解しても、人を機械として理解しているだけです。活き活きと活動する生物としての運動システムの視点が欠けています。その点、作動の特徴から理解すると生物としての運動システムがより活き活きと理解できるようになります。
 ごめんなさい、まだ十分に表現できていないですね(^^;)もう少し寝かせてからもう一度書き直してみます。(おしまい)

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