「健常者のように歩きなさい!」
今回はCAMRの勉強会から、セラピスト歴3年の理学療法士からの質問を取り上げてみます。「→」で始まるのが受講生さんの言葉です。
→「CAMRでは、分回し歩行は「代償運動」とか「異常運動」とか呼ばないとのことですよね。これらは健常者とは違うやり方、違う形という意味で、麻痺があれば健常者とは違ったやり方、形になって当然だということでした。
確かに麻痺が治せないのに健常者の歩行になれるわけはないし、『健常者の歩行を真似したら麻痺が治るかも?』みたいな間違った変な流れが僕の周りでは自然になっているのもおかしいです。
でもそもそもどうして麻痺がある体でも「健常者のように歩かないといけない」と言うことになったのでしょうか?そこのところがどうもわからなくて・・・」
確かにその通りですよね。色々検討するべき視点があるのですが、簡単に説明します。
「障害者も健常者の様に歩くべきだ」というアイデアは、リハビリ業界では根強い思い込みの一つです。
たとえば分回し歩行は教科書に「代償運動」とか「異常歩行」とか説明されています。これに教官も疑問を持ちませんし、生徒はそれこそ素直に従いますよね。
これに対する一つの説明は、「リハビリの夜」の著者である熊谷晋一郎さんが書いています。簡単にまとめると「障害者というマイノリティに対して、健常者であるマジョリティから『そんな歩き方をしないで、もっと努力して私たち健常者の様に歩いてごらん』という上から目線の同化主義ではないか」ということです。
これは一見健常者から親切に言っているようですが、健常者は障害者を全く理解しようとしないで自分勝手な価値観と達成不可能な課題を押しつけているわけです。障害者にとっては迷惑至極でしょう。今でも現場でこのような価値観を振りかざしている人を見ることがあります。
もう一つの説明は、リハビリや西洋医学には、人を機械として見る伝統があるということです。機械には必ず「正しい運動」があります。つまり設計者が意図したとおりの動きが「正しい運動」となるわけです。
そもそも西欧の思想史の根底には「人間機械論」と呼ばれる思想が大きな影響を与えているといわれます。それは「人は神(又は自然)が作った機械である」というものです。だからこの場合は「健常者の運動こそが神の意図した正しい運動である。障害者の運動は壊れた状態だから治さないといけない」と思ってしまうのでしょう。
それに私たちはこどもの頃から様々に動く機械に囲まれて育ってきました。だから「動くものは機械であり、人の体もやはり機械のようなものだ」と人を機械のように見ることに抵抗がないのだと思います。
その証拠に脳をコンピュータとして理解することが普通に見られます。本来、人が作った機械に過ぎないものに、それを通して人の脳を理解したつもりになるというヘンテコなことが起きているわけです。
そして人の体を機械として見て、悪いところを探しては、その悪いところを治したり交換したりすることが治療であるという風にも考えてしまいます。病気や障害を持つと壊れた機械のように止まったり、異常な動作をしたりするものだと考えてしまいます。
でも人は機械と違って、病気になって必要な課題達成ができないと、なんとか自分なりに問題解決を図るものです。ロボットは腕が壊れると腕を使った作業ができなくなります。しかし人は手が使えなくなると代わりに脚や口で課題達成するという問題解決を図るものです。
この「人は機械とは違うんだ」という基本的な視点がないと、障害像を誤って理解したりするわけです。特に脳性運動障害ではその間違った理解が大きな問題になるというのが今日の講義でした。
→「ああ、なんとなくわかる気がします。僕も患者さんの体を機械として接する傾向があるのかもしれません。よく先輩から、『そんなに急いでちゃ、ダメだ!もっと患者さんの気持ちを考えて』と注意されますので・・・・・
この話はこれ以降テーマが脱線してしまいますのでここで切ります。
CAMRでは人を人として接しながら、どのように治療するかの方法論があります。いずれまた整理して書いていきたいと思います(終わり)
※No+eに毎週木曜日は、別のエッセイを投稿中!「「脚が動かんぞ!」患者さんからの訴え」https://note.com/camr_reha
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