俺のウォーキング:理学療法士らしく(最終回)
前回デュエルは偶然を待つしかないと書いたが、実は翌日、俺は公園の裏の脇道でひっそりと白い狩人が現れるのを待ったのである。勝負が待ちきれなかったので仕方ない。そしていよいよいつもの時間帯にやはり白い狩人は現れて歩き始めた。俺は一つ深呼吸をしてからその後を追った。灰色のオオカミ、出陣!である。
追いつき、追い越すのは思ったより苦労した。急に体が重くなったように感じた。「挑戦するのはまだ早かったか?」と一瞬後悔したが、もうやるしかなかった。デュエルロードに入って700メートル辺りでやっと追い越した。すぐ後ろに白い狩人の力強い足音が聞こえる。すぐに追い越されると思ったが、ずっとすぐ後ろをついてくる。これはこれでとても大きなプレッシャーだ。「俺が疲れるのを待っているのか・・」と思った。「ふふふ、いつでも追い越してやるぜ!」という白い狩人の心の声が聞こえる・・・
「あと2キロ以上歩かなくてはならぬ・・・」と思う。脚が地に着かぬ。手と脚の動きがバラバラになるように感じる。このままバランスを崩してこけるのではないか、と思った。
一度もあとを振り返ることなく折り返し地点手前まで来た。ここは少しきつめの上り坂になっている。息が切れてきた。が、そこで変化が起きた。白い狩人の足音が急に遠のき始めたのだ。折り返し点で向きを変えると、すでに白い狩人との間には差がつき始めていた・・・折り返して、お互いに見ないフリですれ違った・・・・
意外にもあっさりと勝ってしまったし、その後ももう負けることはなかった。 今では挨拶や話をする仲になった。よく白い狩人から話かけてくる。「初めて会ったときは両手をポケットに突っ込んで、猫背で歩いとったが、すぐにしゃんと速う歩くようになったのう。やっぱり若いのう」
そうなのだ。俺自身も気づいていた。前シリーズで散々、若者の形で颯爽と歩くことにケチをつけた俺だが、いつの間にか俺なりに「胸を張って両手を大きく振り、弾むように颯爽と歩く若者の歩き方」で歩くようになっている。イヤ、あんなことを書いてごめんなさい。俺が悪かった。
最初、歩幅が広がらずに悩んだが、色々試すと両手に軽く力を帯びて、大きく振ると歩幅も速度も自然に上がった。体幹の振動に合わせて、四肢の振動が協調されると歩幅は広く、歩きは速くなるらしい。
「速く歩くという課題」が俺の運動システムに自然にその形を生んだのだ。アメリカでの主流のアプローチの一つ、「課題主導型アプローチ」である。課題を中心に運動が自己組織化される、ということを自ら実感することができた。
今では股関節の痛みはほとんど消えている。2ー3時間座りっぱなしでも痛むことはない。驚いたのは膝関節のむくみが減ったことだ。以前は見えなかった膝蓋骨の形がはっきり見えるようになっている。血圧は上が130位になってきた。たまに140になるが以前のようにいつも150ということはなくなった。そしてなんと腹回りは目に見えて減少してきた。ただ残念ながら体重はほとんど変化していない。(どゆこと?)これからも持続可能なウォーキングを目指すつもりである。 そして、俺、灰色のオオカミはいつ、誰の挑戦でも受ける!(^^;(終わり)♯持続可能な社会のために今、この場でできる事を考えてみよう!
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正しい歩き方?-そんなに形が大事か?(その2)
さて、猫背や膝痛・股関節痛のあるPTとしてどのようにプロらしく歩くかがまず最初の課題である。
前回書いたように、「健康な若者が颯爽と歩くように」などと運動の形を挙げて「それが正解!」というのはいかにも美容指向の人たちが言いそうなことである。しかも「正しく歩かないと効果がないばかりか、却って悪くなる」という脅し付きである。
つまり「きれいな形で歩け」と言い、そうでなければ「ダメだ!」と否定する訳だ。これは僕のような猫背で痛み持ちの人間には辛い。しかもこの考え方は、リハビリ界でも割と支配的である。これは注意しないといけない。
たとえば障害のある方、特に脳性運動障害の方達に健常者の運動に近づくような目標を掲げる流れがある。実はこの背景には、マジョリティである健常者から、障害のあるマイノリティに対する同化思想があることにプロとして気がつくべきだ。「あなたたちはみかけも機能も私たちに劣るから、私たち以上に努力して私たちの動きに近づきなさい」と言っているようなものだ。
マヒがあるから動きが異なってくるのだから、そんなこと言うならまず「マヒを治してから言ってみろ!」と言いたくなる。
これは学校で「形で運動を評価する」ということを主に習うことも大きく影響しているのではないか?学校では他にも機能で運動を評価することも習うのだが、なんとなくメインが「形で評価する」という流れがあるからだ。患者さんを一目見て、「やれ、緊張の分布がどうのとか、代償運動があれだから」とか言う方が格好いいということもあるに違いない。だから、形で運動を見ると、ついつい健常者と比べて「ああだ、こうだ」と言ってしまう傾向が作られるに違いない。そして形を評価するなら当然健康な若者の形との比較になり、そのズレが問題になるわけだ。
たとえば患者さんが速く歩くようになってもあまり評価せず、「ただ歩けば良いってもんじゃないだろう!代償運動が強まってるじゃないか!」と後輩を注意する先輩達はよく見てきた。そして何をやるかというと患者さんをゆっくり歩かせて分回しなどの動きを小さくしたり、体幹の立ち直りを改善すると言って患者さんを座らせたり、横にしたりして自動運動をさせたりするのである。まるで脳性運動障害の中で、立ち直り運動だけが独立して改善するかのように考えているようだ。マヒがあって力が出ないのだから、立ち直り運動だけが独立して改善することはない。
もちろん形で見ることも意味はあるが、しかしいい加減、運動は形だけでなく、機能や、運動システムの作動の特徴から評価できるようになるべきだ。形だけから評価していたのでは美容系の人たちと同じではないか。
従って僕がこれから述べる「正しい歩き方」とは形からではなく、機能や作動の特徴から捉えた「正しい歩き方」であるべきである(その3へ続く)
正しい歩き方?-そんなに形が大事か?(その1)
妻が買っている中高年女性向けの雑誌をたまたま手に取って見ると、ウォーキングを勧める記事があったので目を通してみる。
ウォーキングのいろいろな効能が紹介され、「健康のために是非歩きましょう!」とあり、「うん、良いことだ」と思って読んでいると、よくあるように「正しい歩き方をしないと効果がない。イヤ、正しい歩き方をしないと却って逆効果!」みたいな展開になっている。
僕は歩き方は人それぞれ、状況に応じても異なると思っているので、どうもこの「正しくやらないといけない」と言いながら、一律にたった一つの正解の形をモデルにしてしまうやり方があまり好きではないのだ。
実際、どの本やテレビ番組でもそうなのだが、提示される「正しい歩き方」とは若い健常者が颯爽と歩く姿がモデルとしてイメージされる。胸を張るけど張りすぎない、自然に顎が引かれ、背が伸びても力が入り過ぎることなく、腕を大きく振って、弾むように「颯爽とした美しい若者らしさ」という印象を与える歩き方である。
「若者の形だけを真似てどうするっ!」などとつい思ってしまう。人生に疲れた60代はすでに偏屈老人の匂いを醸してしまうが、これは性格なので仕方ない。 僕は普段から猫背だし、意識して良い姿勢で歩こうとすると、なにか手足が不自然に動いてすぐに疲れてしまい、歩くのがイヤになるのである。
さらに若い頃のバイク事故で右膝関節内の脛骨骨折があり、一時期体重増加と運動不足がきっかけでそれなりの変形性膝関節症を持っている。明らかに浮腫が出て、歩行時に強い痛みとなることもあった。まあ徒手療法と工夫した運動を繰り返して普段は痛みはほとんど感じなくなっているが、土手の草刈りなどで慣れない体重のかけ方をするとやはり痛むことがある。今も浮腫はある。
また若い頃からパソコンが好きで椅子座位で過ごす時間が長かった。50代の終わり頃には、2年間毎日10時間以上座っていたせいか、その後重心をかける左股関節に荷重時痛が現れた。歩行時に跛行が出るほど痛んだりする。何とかストレッチで誤魔化しながらここまで来た。
高血圧も肥満気味の体も気にはなりながらずっと放ってきた(^^; しかし前期高齢者と言われる年齢も目前に迫ってきているのである。もう少し元気で、やりたいことを続けたい。それでいろいろと改善することを目標に、実は密かにウォーキングを計画していたのだ。それが4ヶ月前。その頃長年勤めた施設を辞めることになって、週に一度のパートタイムの仕事だけになったので、暇な時間が増える。だからそれを機に歩いてみようと思い立ったのだ。
さて、どう歩くか?これが問題だ。一応これでも理学療法士の端くれである。同じ猫背でも、プロらしく歩きたい(^^;そして「形だけでしか見ない正しい歩き方」の流れに新風を吹き込みたい。
このエッセイは、悪条件にも関わらず、果敢にもウォーキングに挑んだ男の記録である。(その2に続く)