意欲のない人(その10 最終回)-リハビリ探偵 新畑委三郎の事件簿
携帯電話の向こうから裕美さんはいつもの勢いで話し始めた。
「娘さんから話を聞いた?ごめんなさいね、うちの先生の勘違いでね・・・娘さんと別れた後ですぐに先生のところに行って話をしたのよ。どうも先生、おかあさんを認知症の方だって思い込んでたみたいで。娘さんから薬の副作用の話を聞く前に、失禁は認知症のせいだって言っちゃったんだって。私からおかあさんの説明をしたら納得して凄く反省していたわ。早速色々調べてたわ……
でね、どうも直接失禁の原因と明確に言い切れる薬はないようよ。もちろんいろんな組み合わせもあるからなんとも言えないらしいけど。でも最近の状態を私が詳しく伝えて、不要と思える薬もあるし、少し検討して薬の内容を整理してもらえることになったわ!まだいろいろ話もあるだろうけど、またね!」
機関銃のように話しまくって電話は切れた。
どうやら薬の副作用の件は期待外れだった。少しガッカリしたが、まあ、薬も少し変更されるそうだし、これで計画した大半の状況変化の手段をやり終えたな、と安堵のため息をついた。しばらくはひたすら待つだけだ。
2週間後、おかあさんは新しいデイサービスに通い始めた。この頃、一人で過ごされるときに一度も失禁がない日が見られるようになったとのこと。以前のような状態に戻ってきたようだ。
それからまた2週間後、裕美さんと一緒にまたお家を訪ねた。室内はまったく別の部屋かと思うくらいきれいになっている。テーブル回りは基本的に配置や置いてある家具は変わっていないのにまったく別の印象だ。以前は尿臭が漂っていたが、今は臭いもしない。カーペットが同じ色調だが新しくなっている。
娘さんの旦那さんの手作りの着替え用の椅子や蓋付きゴミ箱なども使いやすそうだ。見かけも良い。
以前の手すりは壁との隙間が狭く使いにくかったが、新しく壁から大きく張り出した手すりがついていて、今ではおかあさんはそれを使って歩いたり体操をしているそうだ。この手すりも着替え用のコーナーも以前、娘さんと計画したものだ。その時は業者さんに入ってもらうと話していたが、結局旦那さんがおかあさん達と相談しながら作ったとのこと。
その娘さんの旦那さんも今日は来ていた。明るく挨拶してこられたのでこちらもできるだけ愛想良く挨拶を返す。「良い人で良かった。今回の件はお父さんの参加が大きかった」と心の中で感謝した。
娘さんが嬉しそうに話す。
「これまでは週2回2泊してたんですけど、おかあさんと相談して週2回、日帰りで来ることになったんですよ。また以前のように一人暮らしをする気力が出てきたみたいでよかったです。全部先生のおかげです」
「いえいえ、頑張られたのはあなたと旦那さんのお二人です。本当にご苦労様でした」何とか機会を捉えてお二人を労うことができたので少しホッとした。
しかし正直驚いた。旦那さんの参加や薬の変更、デイサービスにも少しずつ慣れて楽しく過ごしているという。なんだかトントン拍子にいろんなことが進んでいて、こちらが面食らってしまう。
裕美さんも俺を紹介したことで娘さんからすごく感謝されていた。どうやらこれで俺も面目を保てると思った。
娘さんと旦那さんと裕美さんで、ワイワイ賑やかに話をしている。旦那さんの部屋の模様替えの奮闘話らしい。
俺はそばで聞くともなしにこんなことを考えていた。「今回はラッキーだった。ちょっと押しただけで、幸運にもいろんな良いことが雪崩の如く起きたんだな・・・・いや、俺は今回ばかりか、いつも幸運に恵まれている。いつも何か幸運が起きて上手くやってきたな・・・・ところで今回は何が原因でこんなに上手くいったんだ?部屋替えか、新しいデイサービスか、ささやかな体操か、薬の変更か?・・・・・まあ、良い。どうせ考えてもわからない。
だがこのおかげでいつも最後はモヤモヤもする。いつも何が効果的だったかはわからない。ただ一度にたくさんのことをやってみたというだけだ。問題は解決しても、すっきりしないのは『犯人はお前だ!』という推理小説でお馴染みの結末がないからだな。皆が胸ときめかせるあの瞬間がないのだ。システム論を基にした状況変化のアプローチは、いつも最後、こんな感じになってしまう。リハビリ探偵と呼ばれても、こんな話では誰も面白がらないし、小説にはならないだろうなと思う・・・・まあ、良い。リハビリ探偵の役割は、犯人、つまり問題の原因を見つけることではなく問題そのものを解決することだからな・・・」
「ねえ、新畑さん!」と裕美さんが突然話しかけてきて、我に返った。「ああ、そうですね」と何が何だかわからないまま間抜けに答えた。「まあ、新畑さん!また人の話を聞いてなかったわね!」と裕美さんが怒ったように言う。可愛い人だ。そして俺も話の輪に加わった。(終わり)
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西尾 幸敏 著「PT・OTが現場ですぐに使える リハビリのコミュ力」金原出版
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意欲のない人(その9)-リハビリ探偵 新畑委三郎の事件簿
翌日、娘さんに電話を入れた。
「新畑さん、色々教えてくださって本当にありがとうございました!」声が弾んでいる。
昨晩裕美さんから聞いていた内容だったが、一通り聞いた。
「何度もありがとうございました」といわれる。
その後やっと内科受診の結果を聞くことができた。
「それがダメだったんですよ」と答える。彼女の声は沈んでしまった。
「母の失禁の話をしたら、『それは歳だから仕方ないです。認知症があるのでこれからもずっと続くでしょう』って言われてしまって」
「ああ、それはひどい。おかあさん、認知症なさそうですもんね。これまで見てもらっていた先生なんですか?もし良ければ、他の内科なりを受診してみたらどうでしょうか?」と提案してみる。
「それがずっと診ていただいている先生で。良い先生なんですよ、母も信頼していて・・・だから先生を変えるというのはちょっと・・・それにケアマネさんもその病院からきておられるんです・・・・ケアマネさんもとても良い人で頼りになるんです。だから病院を替えるのは良くない気がして」
やれやれ、やはりこんなことになってしまう。原因を探してその原因にアプローチしようとしても現実にはなかなかうまく運ばない。特に俺のように飛び込みで馴染みのない地域や施設で仕事をすると、元々の人間関係ができていないのでこの手の「連携の壁」がいつも問題になる。
俺は元々人付き合いが苦手だ。初対面ではあまり話ができないし、仕事上の関係を作るにしてもかなり時間をかけないと話ができない。見ず知らずのところへ飛び込んで話をする関係を作るなんて考えただけで億劫になる。
こんな行動力のない人間が、問題解決の依頼を受けるなんて仕事をしていることが不思議である。まあ、望んだわけではなく成り行きでこうなってしまったのだ。
娘さんが続ける。
「それでも、ここまでで少しずつ母に変化が出てるんです。今日も私が言わなくても自分から2回トイレに行きました。でもどうしても半分くらいは漏れちゃうみたいで。でも先生に言われたようにそれについてはうるさく言わないで、トイレに行ったこと自体を喜ぶようにしています」声に元気が出る。
「ええ、そうですね・・・」と答えたものの後の言葉が続かない。次はどうすれば良いのか?
「ええと・・・裕美さん、あ、ケアマネさんですけど、彼女には受診の結果、もう話されたんですか?」
「ええ、受診が終わってすぐにとなりの事務所で会いましたので」
そうか、もう話したのか・・・確か、以前、裕美さんが「うちの先生、本当に良い人だし、熱心なんだけど、頭がちょっと硬くて困ったりするのよね」なんて愚痴っていたのを思い出す。
その後、
「今は状況変化がうまくいっているのでこのまま続けてください、また1週間後に連絡します。困ったときはいつでも連絡してくださいね」と話して電話を切った。
さて、困った!・・・困った!まずは裕美さんに相談すれば良いのだが、問題が裕美さんの雇い主となれば・・・・
それともいっそのこと、第二プランの精神科受診を勧めてみるか?もしかしたらその先生が物わかりが良くて、薬の検討をしてくれるかも・・・・などと考えてみる。どうも俺は自分に都合良く考える癖がある。こんなことだからよく失敗してしまうのだ。
行動力もないし、コミュニケーションの能力も低いし、判断力も良くないし決断力もないし、人付き合いも良くない。なんでこんなことをやってるんだろう、とつくづく思う・・・・まあ、引き受けたんだから仕方ない。
おかあさんの振る舞いの変化は起きているが、失禁に伴う生活問題の改善は少々だ。これが現在の状況だ。内科の主治医が問題だが、裕美さんの雇い主である。やはり精神科の受診を勧めてみるのが一番楽な状況変化の方向性か?それとも・・・・・・ 俺はしばらく考え込んだが、結局ケアマネの由美さんに電話して、とりあえず相談してみることにした。できれば医師を説得してくれるようお願いもしたい。裕美さんに余計なお願いをするのは気がひけるが仕方ない。スマートフォンを手にした途端、着信音が大きく鳴ったのでびっくりした。画面を見ると裕美さんからだ・・・(その10に続く)
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意欲のない人(その8)-リハビリ探偵 新畑委三郎の事件簿
5日後にケアマネの裕美さんから電話があった。
「委三郎さん、やったわね。娘さんから電話があって大変喜んでおられたわよ!」
「ええっ!、失禁が治った?」
「ううん、まだよ。でもね、大きな変化があったのよ。まずね、娘さんのご主人さん、今年退職して、家にいるんだけど、いろんなお手伝いをしてくれるようになったんですって」
内心、「なんだ」と思った。
「娘さん、それが嬉しかったらしくって。元々ご主人さんは奥さんがおかあさんの介護に苦労していたので、なんとか助けになりたかったらしいの。でもおしっこの世話が主でしょう。ご主人は手が出せないから、奥さんの愚痴を聞くだけだったらしいの。でも委三郎さんが部屋の模様替えを提案したでしょう。だからそれなら自分もできるってね、積極的に奥さんを手伝ってくれるようになったんだって。でね、ご主人さん、日曜大工が趣味で、いろいろゴミ入れを工夫して作ってくれたり、オムツ替えの椅子を工夫してくれたり、いろいろなものの収納をやってくれたり、家の壊れた場所を修繕したりしてくれたんだって。この五日間、毎日通ってほとんど1人で部屋をきれいにしてくれたんだって。
私も今日行ってみたんだけど、見違えるほどきれいになって明るくなってるのよ。びっくりしちゃった!同じ部屋とは思えないくらい。
でね、娘さんもすごく喜んでて、主人がこんなに一生懸命やってくれるなんて思ってもいなかった、先生に相談して本当に良かった、ですって。これまでは自分一人で介護を背負って、主人にも迷惑かけていかないといけないってすごく気持ちが重かったのが吹っ飛んだんですって!」
「ああ、なるほど・・・・」 そういうことかと納得した。状況を変化させると、思いもよらない結果が、良いことも悪いことも含めて起こるものだ。普通悪い結果が起きたり、変化が起きないときにはすぐに状況変化の対象ややり方を変えて対処する。今回のように良いことが起きたらむしろそれを続ける。
実は前回娘さんと別れた後に、もし状況が悪くなった場合に、他にどのような状況変化のやり方があるかを色々考えていたのだが、あまり良い手は思いついていないので助かった。
「それにね、おかあさん、ここ二日間は日中に2回くらい、娘さんが軽く促すだけでトイレに行かれるようになったらしいのよ。それもすごく喜んでたわよ。以前は口うるさく言って最後は喧嘩をしてたらしいんだけど、やはり環境が変わると気分が変わるみたい。
でもおしっこの失敗は減ったけど、まだ続いているみたい。後もう少しで漏れたり、いつのまにか漏れてるって事があるみたいね。
あと、この間相談したデイサービスの転所の件だけど、今日、娘さんとおかあさんと私で見学に行ってきたの。私の知っている中で一番元気で明るい雰囲気のところ。おかあさんも娘さんも気に入られたみたいよ。早ければ来月から利用開始よ。あと10日間くらいね。いろいろ状況が変わっておかあさんも大変そうだけどね。でも娘さんは旦那さんとの件も上手くいってとても張り切っておられるわよ。明日内科を受診するんだって。上手くいくと良いわね。まずはご報告まで。さすが、リハビリ探偵さんね!この先が楽しみ!じゃーねっ!」
といって電話は切れた。
いろいろと状況変化は起き始めているらしい。しかし旦那さんの件は意外だった。ただ今回は上手くいったが・・もし、旦那さんが「介護量を増やして妻に無理をさせている」なんて騒ぎになったら大変だったな、と思う。少し冷や汗が出る。
これまでは主に施設や病院を中心に状況変化アプローチをすることが多かったので、問題解決者以外の家族がこんなに積極的に参加してくることもなかった。やはり家庭を舞台にする場合は、もっと慎重に進めるべきだと思った。今回は一度に多くを詰め込みすぎたと後から反省はしていた。
そして「明日がいよいよ受診か!」と思う。これが今回の状況変化では大きな影響を持つはずだ。柄でもないが思わず手を合わせて祈る仕草をした。「どうか上手くいきますように!」思わず声が出て、急に恥ずかしくなった。(その9に続く)
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意欲のない人(その7)-リハビリ探偵 新畑委三郎の事件簿
俺は話を続けた。
「あと、今は週2回こちらに来られて、計4日間はおられるんですよね」
「ええ、月曜日に来て泊まって、木曜日に来て泊まってます」
「ではその時に娘さんに必ずやって欲しいことがあるんです」
「何ですか?」
「一つは体操です。大変かもしれませんが、娘さんが来られたときにおかあさんと一緒に体操をして欲しいんです」
「ええ、それは良いですよ。どんなものですか?」
「手で椅子の背を持って立ち、つま先立ちを20から30回、足踏みを20から50回、片脚を横に出して元に戻す体操を20から50回」
俺はやって見せながら説明した。
「最初は20回くらいから始めて、できそうなら少しずつ回数を増やします。そしてすこしでもやったら褒めてあげてくださいね。決して無理強いしないように。あ、そうそう、『おかあさん自身のためではなく、私のためにやって!』という感じでかまいません。
つまりこう考えてください。部屋替えもそうなのですが、これまでとは状況を変えること、これが大事です。これまでは『自分のために頑張って』と言ってきたわけでしょう。だからこれからは『私のために頑張って』とこれまでとは違ったことをたくさん積み重ねていきます」
「ああ、これまでと違うことをやって試して様子をみると言うことですか?」「ええ、そうです。それで上手く行きそうだったらそれを繰り返し、上手く行かなかったら別の言い方ややり方を試します。そんな風に考えてみてください」
更に娘さんがおかあさんにしてあげられる簡単な体幹のストレッチといわゆる「失禁体操」を指導する。失禁体操は娘さんも非常に興味を持って色々聞いてこられる。
「まあ簡単そうな体操だし、一緒にやってみます」
「あと、もう一つ!」
「えっ、まだあるんですか?」やや、不服そうな表情をされる。
「ええ、申し訳ないのですが、実はいくつかのことを同時にやってみることで状況変化がより大きくなるんですよ。それでですね、おかあさんは話すのが不自由そうですね。普段あまりしゃべらないので口の動きが悪くなっているようです。それで口回りの体操もいくつか一緒にやって欲しいんです。他の全身の運動と一緒にやるとより効果が出やすいのです。そして一度にいろいろ、短期に集中してやると効果も大きくなります。もちろん無理のない範囲で始めて、無理のない範囲で続ければ良いです。それにこの体操をやるとほうれい線が浅くなって、頬も上がって若く見えると言われてるんですよ!」
娘さんは思わず吹き出した。
「あら、じゃあ私もぜひやらなくちゃ!ええ、ええ、わかりました」
どうやら覚悟を決められたらしい。
「無理なくできそうなことはできるだけ続けてやってみます。一度に、同時に、いろいろやってみるんですね」
表情が更に明るくなった。
「そうです。そして申し訳ないですが、もう一つ。今は病院には通っておられますよね?失禁のことを相談したことはありますか?」
「ええ、今は近所の内科、整形外科に通っています。内科は糖尿とか脳卒中があるので。でも失禁については相談したことがありません・・・・整形は右股関節の頸部骨折があって、手術をした関係で3ヶ月に一度様子をみて貰ってます」「なるほど。内科ではたくさんお薬を貰ってますか?」
「ええ、とってもたくさん」
「ここしばらくで新しいお薬を貰ってますか?たとえば半年前くらいから・・・」
「半年前よりもっと前からのお薬で、あまり変わったものはありません。いや、確か・・・血圧を下げる薬を新しくして、脚が腫れたりとかしていくつか増えました・・・ともかく薬の数が多くて大変だと思ってたんです」
「今度内科に行かれるときに、先生に相談してみてください。ここしばらくいつも失禁するようになってしまったこと。もしかして薬の副作用が関係していないか、ということです」
ここでも娘さんの顔が輝いた。失禁体操と同じく納得できる解決策と思われたようだ。
「ああ、もしかしたら薬のせいだったかもしれないんですね。是非、相談してみます」
「それと・・・ケアマネさんから話を聞きました?」
「ええ、デイ・サービスを変わるっていう話ですよね。ケアマネさんといろいろ相談して、是非にとお願いしました」
実はデイサービスの変更をケアマネの裕美さんと計画したのだ。今は午前中に数時間のデイサービス利用で、リハビリをするだけである。ほとんど他の利用者さんと話をすることもないそうだ。おかあさんが人付き合いを億劫がるのでそうしたのだが、週2回の数時間のお出かけ以外はこの部屋で過ごしているため、この部屋との結びつきが強すぎるのだと思ったからである。娘さんの希望で入浴サービスがあって9時から4時までのデイサービスを今週中に母と娘で見学することになっている。デイサービスを変えればまた状況は大きく変化するだろう。
さて、サイは投げられた!後は結果を見ていくだけだ。
「しばらくは大変だと思います。何か気になることがあったらいつでもケアマネさんか僕に電話してください。また一週間後に連絡をします」と言ってその場を辞した。(その8に続く)
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意欲のない人(その6)-リハビリ探偵 新畑委三郎の事件簿
約束の日が来た。俺は挨拶をして娘さんと向かい合った。おかあさんはデイサービスに出かけている。
「まずおかあさんの失禁の回数を減らそうと思います」
娘さんはややびっくりして聞き返してくる。
「えっ、いきなりそんなことができるんですか?母は動く意欲をなくして、半分自暴自棄みたいな感じなんですよ。おしっこを漏らすのも平気になったみたいで・・・だからまず意欲が出ることが大事だと思ったんです。もともとおしっこ漏らして平気な人ではなかったんです。プライドも高くて・・・でも今は人生を捨ててるような感じで・・なんとか自分のために頑張って欲しいと思ってるんです」
「ええ、そうですね。人前で失禁してよしとするような方ではなかったんですよね?」
「ええ、それはもう几帳面で私たち子供にもとても厳しくてうるさかったんです」
「現在失敗したとき、おかあさんはどんな風に言われますか?」
「私が『しっかりしてよ、自分でできることはやらないとダメよ』と言うと『ダメなの、できないの、私は頑張ろうと思っても頑張れないのよ、しんどいの、辛いの、できないの』なんて言うんです」
「それで?」
「だから『自分のためにも頑張ってちょうだい』と言うと『もう私のことはどうでも良いの。頑張れないし頑張りたくない。もう死んだ方が良いの』なんて言うんです。『そんなことない、この間、一度頑張って公園に花見に行ったじゃない。頑張れるのよ』と言ったら『あれはあんたのために頑張ったのよ』なんて言うから『ダメよ、自分のために頑張らなきゃ』って言ったんですよ・・」
「なるほど、自ら生きる意欲がないということですね・・・まあ、それが一番大きいかもしれませんね。ただその意欲を回復してもらうためにも、身の回りのことで上手く行くことが沢山あれば良いと思います。身の回りの色々なことが上手く行き出すと、自信も出てくるし、結果的により良く生きようという意欲も高まってくると思うんです。その一つとしてまずは失禁の回数を減らそうと思うんです。
どうやってやるかというと、まず、おかあさんの失禁は、今、この部屋で娘さんも含めての状況の中で起きているんですね。だからこの状況を変えてみようと思うんです」
娘さんはあっけにとられた顔になった。「そりゃ、失禁が治ったり回数が減れば嬉しいんですけど、そんなことできるんですか?」
意欲は高められると信じているのに、失禁は意欲を高めないと難しいと思っておられるようだと感じた。やはり、人間は面白い。「まあ、一度だまされたと思ってやってみませんか?まずやることは部屋の模様替えです。それからおかあさんに対する態度も変えてみましょう。娘さんが来ているときだけで良いので日課も加えます。環境と生活を少し変えてしまうんですね」
「そんなことで上手くいくんですか?だって今回のこととはまるっきり関係ないことじゃないですか?」かなりご不満の様子だ。仕方ない。
「一見そう見えても、これで上手くいくことが多いのです。もし、これで変化がなかったら相談料はいりません!だから試してみませんか?」
しばらくあっけにとられていたが・・・「えっ・・・ホントにそれで上手く行くと思ってるんですね・・・・そこまで言われるんなら試すだけ試してみましょうか」少しその気になってくれた。相談料はいりませんというのは、こういった場合によく使う手だ。俺の言うことはあまり信用されないらしく、いつもこうでも言わないと受け入れてもらえない。
娘さんが言う。「何をどうしたら良いんですか?部屋の模様替えと言っても・・・・実はテーブルの回りが汚いので私もきれいにしようと思ったら母が怒るんです。動かすと困るって・・・だからできないんです」
「そうですか、ではできるところから始めましょう!まず最初は、おかあさんは食べることもお茶も神様の本を読むのもテレビも、そしておしっこもおむつ換えも全部この椅子で行われていますね?」
「ええ、そうです!」
「では清潔な活動とそうではない活動、たとえば尿パッド換えなどは場所を分けるようにします。それとおかあさんは神様などに関わる神聖な活動にご熱心ですよね。これを合わせて三つの活動の場所をはっきり分けてしまいます。神様の本は神聖なものだから、あの神棚の下の飾り棚の空いた部分に置き、あの辺りを神聖な場所とします。そして蓋付きバケツと尿取りパッドや紙パンツ類はあそこへ」と指さす。そこは台所のカウンターのこちら側にある段ボールが積んである場所だ。
「あそこへ使われていない椅子とその尿取りパッドが入っているそのテーブル脇のユニット棚を持って行っておむつ換えの場所にしましょう」
「でも母が承知するかどうか・・・」
「そうですね・・・神様関係は神聖なものだから、今のようにごちゃごちゃとお下のものなんかも一緒にしていると不敬に当たる、なんて言ったらどうでしょう。あるいはこの席で神様の本を読むんだったら、この場所を清潔な状態にして神様に接しましょう、というのはどうでしょう?あるいは神様の本を読む時には身の回りを清潔にし不浄のものを回りに置かないで読んだ方が良い・・・と説得してみたらどうでしょう?」
「ああ、なるほど!ええ、それなら言ってみる価値はあると思います」
そんなこんなで、大雑把に部屋内を三つの区画に分ける計画と説得するための言い訳を二人で話し合い、また部屋の模様替えの計画を二人で考えた。娘さんは熱心にメモをとっている。
「これで間違いなく、おかあさんの振るまいが変化すると思います!」
少しだけ娘さんの態度が生気を帯びてくる。何でもないようだが、やることとその意味を明確にし、ご本人ができると確信できてくると、集中力もやる気も高まってくるものだ。 だが、実際にはまだやることは山積みである・・・(その7に続く)
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意欲のない人(その5)-リハビリ探偵 新畑委三郎の事件簿
状況変化型アプローチを進める場合のもう一つの重要なコツは、主たる問題解決者である娘さんは何を問題にしているのか?ということだ。彼女の依頼は「意欲がないから高めてくれ」だ。確かにおかあさんにより良く生きようとする意欲が高まると、万事上手くいくと考えるのだろうが、そんなに都合の良い問題解決はない。そんな目標が達成可能なら、世の中は誰も苦労しないのである。これは「理想家の目標」である。つまり実現不可能な目標だ。
実際には娘さんの言葉の端々には、「おしっこを漏らしていてそれが苦労の種」というニュアンスがつきまとう。説明にはあまり触れられないが、来る度に溜まった洗濯物や尿臭のある掛け布団やクッションの処理に疲れるだろう。だから解決するべき問題は、「尿漏れ」であり、「尿漏れが減り洗濯物が減る」が目指すべき解決の1つの状態だろう。これは「意欲を高める」に比べて実現可能な目標である。
俺のように問題解決をして相談料を頂く仕事では、大事なのは依頼人の満足である。だからどうなると満足されるかを考えるのは一番大事なことだ。娘さんは「おかあさんの意欲を高めたい」と依頼されたが、これを言葉通りにとって、仮に俺がおかあさんを上手く操って「明日から私、頑張るわよ!」と娘さんの前で言って運動をしてもらうとしよう。娘さんは一瞬喜ばれるかもしれないが、失禁が変化しなければいつまでも満足はされないはずである。
これは普通のリハビリでも同じだ。患者や家族は言葉にならない具体的な願いを持っていることは珍しくない。また「こうなったら良いのに」という理想の目標を口にされることも少なくない。結果的には実現できない目標よりは、少しでも実現できる目標こそが大きな満足を生むものである。
さて、この二つが決まると具体的に状況変化アプローチの具体的なロードマップを作成する必要がある。これには時間がかかるので家に帰ってゆっくりと考えよう。
また「失禁とそれに伴う介護量の負担」が問題、「失禁の回数減」が目標として決まったので、こちらに対する原因追及型のアプローチのロードマップを考えてみる。
本人に認知症はないようだが、これはもう少し慎重に構えていたほうがよい。もう少し様子をみよう。
デイサービスの報告書では「娘さんへの依存性が高まって意欲がなくなったから」なんて言ってたが、それはどうも薄い。認知症もなく、単に依存性が高まって、動く意欲が低下して失禁が出るようになったとは考えにくい。むしろ逆だろう。失禁が始まって、それを自分でコントロールできず、無力感と自信のなさから意欲が低くなって、依存性が高まる・・・というのはこれまでもよく目にしてきた。
実際のところ、話を聞きながら俺には心当たりがあった。半年くらい前から失禁が始まったことを考えると、何かその頃に始まった状況変化が影響したかもしれない。すぐに思いつくのは薬の副作用である。もしその頃に新しい薬が始まっていればそれが怪しい。
もう一つはあの表情のなさが気になる。うつ病などでも失禁はみられるらしいので、精神科を受診して貰ったらどうだろう。
これで原因追及型のアプローチのロードマップはできあがった。一番の原因候補は薬の副作用であり、二番目の候補は精神疾患である。一つ目は主治医に相談してもらって、怪しい薬をやめてもらう。これで上手く行かないときは、精神科を受診してもらう。実にシンプルである。原因追及型は問題解決の道筋が単純だ。 このように因果関係の考え方、つまり原因を探してその原因を解決する考え方は、複雑な出来事をシンプルに理解して、問題解決を簡単にすると考えられている。これが利点である、と。だが物事はそんな簡単にはいかない。
たとえば脳卒中では体が不自由になるが、その原因はマヒであり、そのマヒの原因は脳の細胞が壊れたからである。これも実にシンプルな構造だ。原因は明確である。しかし原因が明確だからと言ってリハビリで壊れた脳細胞を再生、あるいは機能的に再生する手段はない。つまり原因がわかっても原因をなんとかする手がないのだ。どうしようもないのだ。人の体や振る舞いではこのようなことが多い。 医療的リハビリテーションでは障がいを問題にするが、根本原因である障がいは本来治らないものである。だからリハビリテーションの基本的な考え方は、現状をより良い状態にすることだと思う。
学校で習う原因追及型の問題解決は、一般の医療の第一の目標となる「病気の原因を治す」という方向性を持つが、リハビリでは「状況をより良く変化させる」という方向性を持つ状況変化型の問題解決が相応しい場合も多い。だから俺は常に二通りの問題解決を進めるわけだ。
しかし何はともあれ、今回ばかりは「原因追及型の問題解決」には俺も自信がある。「きっと薬の副作用かうつ病傾向かのどちらかだろう」と思っている。それで解決しそうな予感がする。だからいっそのこと、面倒な状況変化型のアプローチはしないで「原因追及型の問題解決」だけを進めてみようかと思ったりもする。その方が娘さんにも苦労をかけないし、俺も面倒な計画を立てなくて済む、と思う。
でも一方では「俺にできるだけのことはやってみる」という俺なりの方針みたいなものをいつの頃からか漠然と抱いている。今回の件では裕美さんも関係している、そうだ、できるだけ良いところを見せないといけないのだ!「そうだ!やっぱりできるだけのことはしてみよう!」そう結論づけたところで家に着いた。(その6に続く)
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意欲のない人(その4)-リハビリ探偵 新畑委三郎の事件簿
ケアマネの裕美さんは「ごめんね、『意欲を高めてくれ』なんて依頼で・・・・失禁とかもあって専門じゃないでしょう?でもこれまでもいつもなんとかしてくれたから、今回も期待してるわ!」と俺の肩をポンと叩いてくる。 「じゃあ、次の約束があるから、私行くわね。委三郎さんも忙しいんでしょう?また連絡するね」とくるりと背を向けて駐車場に向かう。弾むように歩いて行く後ろ姿を、俺はしばらく見送った。
確かに「意欲を高めて欲しい」という依頼には参る。俺はまずこれを目指すことはしない。基本、他人の意欲を意図的に高めるなんてできないからだ。自分の意欲をコントロールするのだって難しい。まあ状況変化が起きて、結果的に「意欲が高まる」ことはよくあるが、まあ、まずい依頼を受けてしまったかな・・・・しかし、率直に言って裕美さんから頼られるのは悪い気分ではない。俺にとってはまあまあ良い感じの人だ。一緒に仕事をするのはむしろ楽しみでもある。裕美さんだって俺と仕事をするのは楽しいと言ってくれる、ふふふっ・・・
でもお互いに結婚しているので、仕事以上に付き合おうとは思っていない・・・・が、もちろん裕美さんからどうしてもって言われるんなら付き合わなくもないというところだ、フフン・・・まあ、残念ながら今のところ裕美さんの方にはそういう雰囲気はない・・・おっと、妄想に走ってしまった・・・
俺は次の仕事があると言ったが、実は今日は急ぎの仕事はない。先ほどの家を辞するための言い訳だ。ゆっくりと考えをまとめるつもりだ。なにかひらめきそうなのだ。
俺は問題解決に当たってはできれば二通りの方法を用意する。一つはそれらしい原因を推測して、因果の関係を想定し、その原因にアプローチする。これは原因追及型の問題解決で学校でも習うものだ。だが現実には、有力な原因が見つからないことは多いし、逆に沢山ありすぎることもある。また見つかってもどうしようもできない原因も多い。
たとえば脳卒中後に歩行不安定になる。その原因はマヒであり、マヒの原因は脳の細胞が壊れたことだ。でもリハビリでは脳の細胞を再生させたり、あるいは機能的に再生することは今のところできていない。つまり原因がわかってもどうしようもないわけだ。
だから俺はいつももう一つの状況変化型の問題解決を主に進めることにしている。
たとえば「現在の問題は現在の状況から生まれている」というふうに考えていく。つまり失禁の問題は、あの家のあの環境とおかあさんとで作られるシステムの中で生まれているのである。あの部屋とおかあさんが出会えば、いろいろな状況が生まれうるだろう。しかし水が低い方へ流れて一番低いところで溜まって落ち着くように、その状況の中で自然に「動かないで失禁」という状況に安定しているのである。やるべきことは、状況を変化させて落ち着く状態を変えることである。
こうして原因追及と状況変化の二刀流で問題解決を図るのだ。
そう言うわけで、まずは状況変化型のアプローチを考えてみる。
状況変化型のアプローチを組み立てるにはいくつかのコツがある。
まず・・・最初のコツは誰が一番問題解決に熱心かと言うことだ。この場合もちろん娘さんだ。今回の依頼人だ。この人が主たる問題解決者になる。
よく若い人から、「なぜセラピストが主たる問題解決者ではいけないのか?」と聞かれる。これに簡単に答えると、「セラピストが主たる問題解決者として振る舞うと、セラピストがいるときにしか状況変化が起きない」からである。だから主たる問題解決者は患者本人か、その家族が好ましい。
そうすると「患者や家族は消極的で何もしようとしない」と反論されるが、患者や家族は問題解決のための具体的な選択肢を持っていない場合が多いのだ。普通の患者や家族が持つ選択肢は、「病院に行って、専門家に任せる」である。自分が何か問題解決に役立つとは思いもよらないし、具体的に実生活で自分ができる有効な手段があるとは考えていないことが多い。
よく病院でセラピストが「家ではこのような運動をしてください」と言うが、これも「専門家の判断に従う」という文脈の中で動いているだけのことが多い。自分から「問題解決しよう」という積極的な態度ではないので、長続きがしないことも多い。
また専門家の意見に従った結果、「何がどうなるのか?」という具体的な目標があやふやだとやはりあまり熱心に取り組まれないことが多い。「こう頑張ったら、こうなった」という結果が見えないので、続けようという意欲が長続きしないのだ。
だから状況変化アプローチを進めるときは、主たる問題解決者を決めてその人に何を目的に、具体的に何をして、その結果どうなるのかを良く知っていただく必要がある。
さて、あともう一つ大事なことを考えなくてはならない。それは・・・(その5に続く)
【CAMRの基本テキスト】
西尾 幸敏 著「PT・OTが現場ですぐに使える リハビリのコミュ力」金原出版
【運動システムにダイブ!シリーズの電子書籍】
西尾 幸敏 他著「脳卒中片麻痺の運動システムにダイブせよ!: CAMR誕生の秘密」運動システムにダイブ!シリーズ①
【CAMR入門シリーズの電子書籍】
西尾 幸敏 著「システム論の話をしましょう!」CAMR入門シリーズ①
西尾 幸敏 著「治療方略について考える」CAMR入門シリーズ②
西尾 幸敏 著「正しさ幻想をぶっ飛ばせ!:運動と状況性」CAMR入門シリーズ③
西尾 幸敏 著「正しい歩き方?:俺のウォーキング」CAMR入門シリーズ④
西尾 幸敏 著「リハビリの限界?:セラピストは何をする人?」CAMR入門シリーズ⑤
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関東のコロナを巡る状況は停滞・・・(^^;))
関東でのコロナの感染数は下げ止まりの状態だ。一旦下がったところから少しの増減を繰り返している。そして緊急事態宣言が2週間延長されることになった。
小池都知事が「原点に立ち返って」とテレビで言っていた。つまり手洗い、マスク、会食を避けるというこれまで続けてきたお願いを更に繰り返そうということだ。
確かにこの解決方法で一定の効果が得られた。地方に行くとこの方法で十分に感染状況は改善したと言える。だから地方では悪い解決方法ではないのだと思う。
だがコロナ感染のような問題は、特定の原因だけで起きているとは考えられない。つまり会食だけが原因ではなく、他の様々な要因の相互作用から生まれる状況から生まれると考えられる。
特に一都三県は、広域に大きな人流がある地域だし、他にもいろいろと地方にはない独特の要因があるのだろう。東京を含む一都三県では、既に停滞の状況を生み出している。
問題はシステム全体の特定の状況の中から生まれるのである。今は停滞を生み出す安定した状況の中にあると思われるので、少し状況を変化させることを考えるべきだろう。
たとえば国立競技場にアスリートやミュージシャンを集めて、菅総理が司会を務めて様々なパフォーマンスのテレビ・ショウをやるのである。最後に「楽しんでいただけたか?今はライブで楽しめないが、みんなで感染を抑えて、今度はここに来て楽しまないか?」と涙ながらに訴えれば少しは状況が変わるのではないか?(あまり良い方法ではないか・・・(^^;))
これはリハビリでも同じで、最初の頃に運動改善を生み出したからと同じアプローチを続けてもその後停滞してしまうことはよくある。更に同じアプローチを強力に繰り返しても、既に状況そのものが頑固に安定してしまっている。
何か特定の原因、コロナの場合は「会食」を主な原因とみなし、そればかり重点的にやるのだが、そのアプローチ自体がやがて停滞という頑固な状況を生み出すことはよくあるのである。少し視点を変えて状況を変化させることを考えても良いだろう・・・というのが基本的なシステム論の状況変化のアプローチなのです。