CAMRでは、健常者や障害者の運動の振る舞いを観察することで、人の運動システムの作動の特徴を明らかにすることを目指してきました。
前回説明したように「状況性」という作動の特徴は、豊富な運動リソースと多彩で柔軟な運動スキルを生み出す構造によって支えられています。障害を持つということは身体リソースを失ったり貧弱になったりすることです。そうすると利用可能な環境リソースも貧弱になり、それらを利用する運動スキルも貧弱になります。そうすると「必要な様々な生活課題を達成できなくなる」ことが障害を持つと言うことです。
だからリハビリでは、身体リソースをできるだけ豊富にすること、環境リソースを工夫しできるだけ増やすこと、そしてそれらの運動リソースを用いて必要な生活課題達成するための運動スキル学習がリハビリで行う基本的な方針だと説明しました。そしてこれはどんな障害でも関係なく、同じ方針でアプローチします。
どんな障害であれ、運動リソースが貧弱になり、運動スキルも貧弱になって生活課題達成力が低下あるいは失われるからです。
もちろん障害毎に運動リソースの増やし方や運動スキル学習の進め方に違いは出てきます。特に脳性運動障害では、弛緩性の麻痺の程度や範囲が広いため、患者さん自身の自律的な問題解決の作動が多く見られます。
従来の学校教育では、人の運動システムを構造と各器官の働きから理解するという、機械と同じ視点で理解します。機械はもちろん故障が起きても、自分でなんとかしようとはしません。そのため人の運動システムで障害が起きた時に、システム自身の作動で問題解決を図っているなどということは想像もできないのでしょう。だから障害後の現象を全て「症状」として捉えてしまう傾向があるのだと思います。
でも生物では、問題が起きるとそれを何とか解決して必要な課題を達成する、そして生存のための問題解決をできる範囲で図ることは当たり前のことです。生物ができることをしないでただ死を待つなんて考えられません。この生物としての活き活きとした運動システムの作動を理解していないのが現状の学校教育の問題点です。
たとえば頸椎の伸展に関する筋肉は23対あります。頸を伸展するのにどうしてそれだけの筋肉が必要なのかは構造と各器官の働きからでは理解できないのです。たとえば肘の運動を屈曲・伸展だけで理解するならロボットの様に屈筋・伸筋が一つずつだけあれば良いのです。側屈や回旋が同時に起こるなら、それぞれに一対あれば良さそうなものです。でも実際に頸部の運動は、無限の状況変化の中で、体幹と頸部の無限の動きに応じて適切に頸部の位置を保持するために必要なのだと考えると、決してそれは多すぎるとは言えないわけです。
また平面関節の動きは無限に生じうるのです。自由度2の関節、平面上で一点をとる可能性は無限にあるからです。人の関節はほとんど自由度2か3の関節です。つまりこれだけでも無限の動きを生み出すわけです。機械のようにほとんどが自由度1の動き(直線上を往復するあるいは軸の回りを回転する等)だけで構成されているわけではありません。
まあ僕の言いたいことは、構造と各器官の機能というロボットを見るような視点だけで人の運動システムを理解しても、人を機械として理解しているだけです。活き活きと活動する生物としての運動システムの視点が欠けています。その点、作動の特徴から理解すると生物としての運動システムがより活き活きと理解できるようになります。
ごめんなさい、まだ十分に表現できていないですね(^^;)もう少し寝かせてからもう一度書き直してみます。(おしまい)

カテゴリ:患者さんの振る舞いを観察すること [コメント:0]














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