新しい視点を身につけることの難しさ(その3:最終回)
ここまで新しい視点を理解することが難しいのは、学校で習った理論を真実と思い込む、あるいは間違った因果関係の仮説を信じ込んでしまったせいだと述べてきた。
まあ、学校でそう教え込まれていることもあり無理のないことだと思う。
だが臨床で働いていると否応なしに学校で教え込まれた内容に疑問を持たざるを得ないことも多い。
たとえば「分回し歩行」 これは学校でよく使われる教科書には、「異常歩行」とか「代償運動」というラベルを貼られている。臨床で働いているとこのラベルをとても悲しく感じる。
というのも「健常者の歩行と形が違っている」ことが異常と呼ばれる。麻痺のある体で一生懸命に歩くための運動スキルを試行錯誤、獲得したのである。患者さんの汗と苦心の末に身につけた運動スキルである。これをあっさりと「異常」と名付けてしまって良いのか?思わず「健常の歩き方でないといけないのか!」といいたくなる。
なんだかマジョリティの健常者からマイノリティの障害者に対して、「それは異常だから良くないよ」と上から目線で批評しているようで嫌な感じである。
代償運動も健常者とはやり方が違うからという理由で名付けられている。代償も日本語の意味はあまりよくない。犠牲を払うとか代償を償うとか、高くつくなどという言葉が並んでいて、これまた「治さなくてはいけない」とセラピストを駆り立ててしまう。
更に代償運動は、そのまま使っていると他の部分にストレスがかかって、痛みや新たな傷害を起こすなどという説明がついている。こうなるともう「錦の御旗」のようなもので代償運動はなんとしても「治すべきもの」となってしまう。
それで異常歩行も代償運動も、治さなくてはいけないからと何をやるかと言えば、健常者の歩行が正しくて、負担のない歩行スキルに間違いないと、健常者の歩行を目指そうという方向になってくる。
だがその前に考えるべきは、麻痺はどうも治せないということである。ここでも再々述べているが、僕が実習生時代に「歩き方を治せ」と指導していたおじいちゃんから、「歩き方を治すから、まずお前がわしの脚のマヒを治せ」と言われて「全くその通り」と沈黙してしまったことを思い出す。
リハビリは決して万能ではない。限界をはっきりと認め、その中で何とか工夫して頑張らないといけない。
現在も「歩き方を治せば、つまり正しい歩き方を身につければ麻痺が治る」みたいな論法を平気で言っているセラピスト達に会うことがある。因果関係では当然原因(脳細胞の傷害)にアプローチする訳だが、結果(歩行のやり方)にアプローチすることによって原因を解決するみたいな滅茶苦茶な論法である。
誰もこのトンチンカンな論法を正そうとしていないところが現在の問題である。若い人達は、自分たちのやっていることにもっと厳しい目を向けて欲しいものだ。徹底的に話し合って矛盾をあぶり出し、その上でどうするかを検討し、アイデアを出してほしいものである。
どうも年寄りの愚痴になってしまった。書きたいことはまだたくさんあるが、このシリーズはここでいったん閉じたいと思う。(終わり)※No+eに毎週木曜日は、別のエッセイを投稿中!最新の投稿「運動スキル学習-運動スキルが創造されるまで(その4)」https://note.com/camr_reha
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