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不自由な体で孫の仇討ち-新興犯罪組織首領殺人事件
小説から学ぶCAMR その6
「なるほど・・・で、結果は?」
「10メートルを94歩、47秒で歩かれてます。距離を秒数で割ると速度、10メートルを歩数で割ると歩幅の平均距離が出ます」
そう言ってメモ用紙に筆算した。
「速度は1秒21センチ、歩幅は約10センチです」
「ぶっ、1秒に21㎝、10秒で2メートルか。そうか、昆虫並みだな。で、歩幅が10㎝か。俺のような病気になるとどのくらいだ?」
「麻痺の程度によってまちまちです。そうですね、同じくらいの麻痺の方で、一人で外歩きのできる人の平均は1秒当たり87センチ、一歩平均は50センチくらいです。単純な数字で言うと・・・10メートルを11秒くらい、そして20歩くらいで歩かれてます」
「そうか、俺が94歩と47秒だっけ?歩数も時間も五分の一くらいで歩けるわけか・・・俺ぐらいの麻痺で外歩きができるのか?」
「ええ、そう思います」
麻痺は重くても、体が硬くなって支持性がしっかりとしていて、体力もありそうだ。こんな方はちょっとしたコツで速く歩かれるようになることが多い。
「どうして俺はこんなか?」
「それも論より証拠です。実験してみましょう。そこのベッドに横になってみましょう。そして僕が藤田さんの身体をほぐしてみましょう。上田法という技術があるのです。全身の柔軟性を改善します。まずはそれを試してみましょう」
藤田さんは素直に従われる。僕は体幹と股関節を中心に上田法のテクニックを実施した。上田法は脳卒中などの障害後に硬くなった体を効果的に柔軟にする。結果が出やすいように丁寧に時間をかけて行う。
終わったあと、
「ではもう一度歩いてみましょう。でも身体の状態が大きく変化していると思うので、少し身体を使ってみましょう」と指示した。
藤田さんはベッドから杖を持って立ち上がる。ふらついて倒れそうになったので支える。藤田さんは「持つな!」と怒鳴った。少しびっくりした。人に助けられるのはあまり好きではないのだろう。
しかし、
「さっきの上田法で身体の状態が変化しています。変化した身体に慣れるまでは僕が支えなくてはなりません」と力を込めて強く言い返した。少し躊躇が見られたが、実際に体の変化に藤田さんも戸惑ったようだ。
「わかった」と小さく答える。
僕は麻痺した腕を持ちそのまま10メートル近く歩かれる。
藤田さんは「頼りない、頼りないぞっ!何をした?身体が頼りないぞっ!」と何度も叫ばれる。その後プラットフォームの前に立っていただき、起立・着座動作を数回、立ったまま膝の屈伸運動や爪先立ちなどの運動を20回ずつ行った。そうこうするうちに体の動きが安定してきたのが持った腕を通して伝わってきた。
ボトックスだと筋を硬くするメカニズム自体を停止させてしまうので直後に運動しても低緊張が持続する。が、上田法の場合、過緊張という状態だけを変化させる。筋を硬くするメカニズムは、そのままなので、その後に運動するとまたある程度の硬さが戻ってくるのだ。しかし今度は施術前ほどは硬くはならない。
つまり再び硬さが表れて、その結果、支持性は再び出現するが、ある程度の柔軟性が改善したままの状態なので運動性、つまり動きやすさも同時に出現するのだ。それで開始線に立っていただき、もう一度10メートルの歩行の計測をする。目に見えて歩行の様子が変わった。歩幅が広がって速くなった。
「今度は62歩、33秒です」と言った。
藤田さんは驚いたようだ。
「頼りないようだが、動きやすくもなっとるようだ。何が何だかわからん!どういうことだ?」
「ええ、それが、申し訳ないですが、今日はもう時間切れです。今日は藤田さんの初日なので余裕を持って60分の時間を用意しましたが、僕はもう次の利用者さんのところに行かないといけません。続きはまた明日以降にしましょう。これからは毎日40分の訓練時間です。他の人が休まれるときは、多少余裕の時間を作ります・・・・」などと説明した。
こうして明日の訓練時間の打ち合わせをして別れた。藤田さんは不満そうだったが、僕は予定を大幅にオーバーしていたのでそれどころではなかった。後片づけも早々に次の利用者さんのところに向かった。(その7に続く)
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不自由な体で孫の仇討ち-新興犯罪組織首領殺人事件
小説から学ぶCAMR その5
次の日、僕は藤田さんの部屋に行った。挨拶をして担当が替わったことを説明した。藤田さんは押し黙ったまま、ベッドに座って電子メモに何かを書き付けていた。不機嫌だ。何も喋らない。気まずい空気が流れた。いきなり担当が替わったのだから、気分も良くないだろう。
藤田さんはラジオをつけっぱなしにしていた。ちょうど英会話の教材の宣伝が始まっていた。「アメリカの赤ちゃんは勉強なんかしなくても英会話ができるようになります。勉強なんかしなくてただ聞いているだけ。つまり何度も何度も繰り返し聞いているうちに英会話って自然に身につくもんなんです」みたいなことを言っていた。静かな室内にその声だけが鮮明に響いた。
突然藤田さんが話しかけてきた。
「あんた、英会話できるかね?」
「いえ、できません。話せるようになると良いなと思いますけど」
「この英会話教材はどうかね?聞いてるだけで話せるらしいぞ!」
どう答えるべきか一瞬躊躇した。なんだか試されているような感じがしたからだ。が、以前から思っていたことを正直に話した。
「ハハハ、そんなことはないと思います。赤ちゃんがただ聞いているだけなんてあり得ません。赤ちゃんは生きるために自分の欲求を聞いてもらおうと必死です。母親の言っていることを理解しようと必死です。そんな状況に伴って言葉があるわけだから、その言葉の重要さに気づいて、必死に考えながら聞いているんだと思います。赤ちゃんは生きるために必死に聞いてるんだと思いますよ。だから生きるための手段として聞かないとダメだと思います」
「ふーん、そうだな・・・妻もこの宣伝を聞いてそんなことを言っておった。もう亡くなったがな。美人で頭の良い女だった。独学で英語を学んでいた」
「ああ、そうなんですね。それはお寂しいですね。独学で英語はかなり喋られたんですか?」
「うむ、何年間か外国で過ごしたが、妻のおかげで何とか生活、それこそ生きていくことができたよ」と、その後もなんだか話が盛り上がった。運が良かった。良い話題に引っかかったわけだ。その後わかったが、だいたい奧さんとお孫さんの話題になると、大いに盛り上がる人だった。ひとしきり妻との思い出話が終わったあと、唐突に
「俺の歩き方はどんなもんかなー」と聞いてこられる。
「まだまだ良くなると思います」と答えた。
「その、何か?立ち直り反応とかを良くするのか?」
やはり先輩とのやりとりは気になっておられるようだ。
「いえ、僕はあの先生とは病気に対する考え方や理解の仕方が違いますので」
下手に言い訳したり、社会的に気を使って回りくどく説明するより、この人には正直に伝えた方が良いと思うようになっていた。
「ほうー、どういうことだ?どう違う?」
「そうですね・・・・まず話をするよりは実際に試してみませんか?実験です!」
もと化学を仕事としていくつか特許を取った方という情報を聞いていたので、思い切ってこの言葉を使ってみた。藤田さんは一瞬考え込んだが、「うん、良かろう、実験してみよう!」と言った。
そこで藤田さんを乗せた車椅子を押して中央の広いホールに出る。リハビリの訓練はだいたいここで行われる。僕は床の青の線を指さした。
「ここに爪先を合わせて立っていただけますか?」とお願いする。藤田さんは杖を持って言われたとおりに立った。
「向こうに、12メートル先にやはり青色の線があります。これからそこまで歩いていただきます。時間を計りますのでできるだけそこまで早く歩いてみてください」と指示した。
「うむ、わかった」と答える。そして「よーい、どん」と言って開始する。例のちょこちょこした歩き方だ。僕はストップウォッチを持ち、藤田さんが転げないように寄り添って歩いた。歩き終わると息が切れてじんわりと汗をかき始めている。相当努力して歩かれている様子だ。そして実際に歩き終わったあとに説明する。
「このすぐ手前に黄色い線があるでしょう?最初にスタートしてから、その黄色い線に到着するまでの歩数と時間を測りました。最初の緑の線から黄色い線の間は10メートルです。つまり歩き始めから10メートルに達するまでの歩数と時間を測ったのです」
「なんでこの緑の線までの12メートル歩かせた?」
「黄色の線がゴールと言うと、そこに向かって速度を落として止まる方がいるからです。 10メートルを最速で歩ききって欲しいのです」
「なるほど・・・で、結果は?」(その6に続く)
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不自由な体で孫の仇討ち-新興犯罪組織首領殺人事件
小説から学ぶCAMR その4
藤田さんの最初の主担当の先輩は、初日に藤田さんのことを嫌ってしまった。
先輩は藤田さんに「体幹の立ち直り能力が低下していて、それが歩行バランスの悪くなる原因となっている。だからまず横になったり、座った状態で体幹の立ち直り能力を改善しましょう」と説明したらしい。説明を受けた藤田さんは、すぐに質問した。
「この病気、脳梗塞は立ち直り能力が低下する病気なのか?前の病院の理学療法士は、病気になった脳とは反対の体に筋が硬くなる麻痺、痙性麻痺が起きて、力が出ないし、硬くなって動きにくくなる病気だと言っていたが?立ち直りなんて言葉は出なかった」
「ああ、そうです。脳の細胞が壊れて体が硬くなり、力が出にくくなりますし、体幹の立ち直り能力が低下します。他にもいろんな症状が出ます。その結果、歩行のバランスも悪くなるんです」
と答えたらしい。
すると藤田さんは
「脳の細胞が壊れていろんな症状が出るのか?では力が出ないのも、その立ち直りなんとかというのも歩行のバランスが悪いのも全部症状ではないか?原因は脳の細胞が壊れたことだな・・・・つまり脳の細胞が治らんと症状は改善せんのではないか?」
これを聞いて先輩は混乱したらしい。
「脳の細胞は再生しないんです」
と答えた。
すると藤田さんは
「ではどうにもならんではないか?」
と答えたという。
先輩は「どうもこの患者は理解が難しいらしい」と考えて、しばらくいろいろと説明を繰り返したが、言うことに一々質問をされ、納得されないので仕方なく訓練をしないで帰ってきたという。先輩は記録室で居合わせたスタッフを相手に大声で文句を言い続けた後で部屋を出て行った。主任が僕のところに来て
「奴はどうも我慢がたりない。相手によっては良いから、使い方次第だよな・・・で、海、わるいな。今回はどうもお前が担当したほうが良さそうだ。いいか?」
と遠慮気味に頼んできたので
「良いですよ」
と答えた。
僕も担当したかったのでちょうど良かった。
ところで、この先輩はいつもこうだ。利用者さんや後輩が自分の思い通りにならないと我慢ができないらしい。相手を自分の思い通りに支配したがる傾向がある。しかも頑固で物わかりが悪い。もちろんそれでも先輩と相性の良い人もいるので、主任の言う通り「使い方次第」なのだろう。
おそらく藤田さんが言いたかったのは「体が硬くなるのも、力が出ないのも、立ち直りが悪くなるのも、歩行のバランスが悪いのも脳の細胞が壊れた結果だ。その結果同士に因果の関係を想定するのは間違っている」ということだろう。
実はこれについて、僕は前に先輩に言ったことがある。大森莊藏という哲学者が因果関係について雷を用いて説明していたのでこれがわかりやすいと思って引用してみた。
「稲妻がピカッと光って、ゴロゴロと雷鳴がなります。大昔の人達は、きっとピカッと光るのが原因で、その結果ゴロゴロ鳴ると考えたと思います」
「うん、そうだな」
と先輩が素直に答えた。先輩もそう思ったようだ。
「でも実際には違いますよね。本当の原因は雲の中で摩擦電気が起こることで、その結果、光って、音がなりますよね。どちらも結果ですよね」
「うむ」とゆっくり大きく答える。
どうやらそう言われて間違いに気づいたらしい。
「つまり大昔の人は、光と音という結果同士に因果の関係を想定していたことになります」
「うん、そうだね。昔は科学が発達していなかったからな。無理もない。みんな迷信深いんだ・・・それでそれがどうした?」
次は言いにくかったが思いきって言ってみた。
「立ち直り反応の低下もバランス能力の低下も、脳の細胞が壊れた結果です。つまり結果同士の間に因果の関係を想定しているのかも?」
先輩の顔があっという間にどす黒くなり、目つきが険しくなった。自分に対する批判だと気がついたのだ。こう言うことにはむしろ人一倍敏感なのだ。突然声を荒げた。
「馬鹿野郎!何を言ってやがる!立ち直り反応が悪くなるから、歩行バランスが悪くなるんだよ。誰が見たってわかることだ!みんなもそう言っている。本にも書いてある。講習会でも言っている!立ち直り反応が良くなれば、歩行も良くなるんだ!」
怒りで声が震える。
僕は何も言えなくなった。後悔した。判ってもらえそうにない。思わず「すいません」と言ってしまった。先輩はその後も何か言おうとしたらしいが言葉が出なかったようだ。クルッと背を向けて立ち去ってしまった。
その背中に向けて
「たしかに麻痺が重いと、立ち直り反応も悪く、バランスも悪いですよ。でもそれは相関関係で、因果関係ではありませんよ。あなたは因果関係と相関関係を混同してるんだ!」
と心の中でさけんだ。
結局、先輩にはその話はまったく響かなかったようで、その後も判で押したように患者さんに「立ち直り反応が悪くなったから、歩行バランスが悪くなったので、立ち直り反応を良くする訓練をします」と同じ説明をして、同じように訓練をしていた。
しかし、確かに、どんな理屈であれ、アクティブに動くことはリハビリの基本で、それを繰り返すだけでもある程度の改善は見られるものだ。だから先輩のやってることを全面否定するのも良くないと思い直すことにした。
まあ、そんなことがあってしばらく僕達の関係はギクシャクした。まあ、僕がかなり気を使って関係を徐々に修復しようとしたわけで、他のスタッフからは表面的にはなにも問題はないように見えただろう。
今回「坂道で何度もダッシュするという不思議な訓練」とマスコミに洩らしたのもおそらく先輩だろう。以前からそれに対して「緊張を強め、異常な運動を強めるだけの意味の無い訓練」と批判的だった。
しかしその練習は昭君の自殺のずっと前に行っていた訓練だ。事件の前なんかじゃない!先輩かマスコミかのどちらかが間違えたのだろうと思った。それとも事件前の方がおもしろいと思ったのか・・・・・(その5に続く)
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小説から学ぶCAMR その3
藤田さんとは以前からよく話をしていたし、今回のマスコミ報道で改めて知ったこともある。刑事さんから少し聞いてはいたが、テレビを通して新たに事件の経過も少し詳しくわかってきた。最初は何を書くべきかわからず、何度も打ち直したが、「まずは藤田さんのことを書いてみよう」と思った。
藤田さんは大学・大学院で化学を学び、大手薬品会社に就職した。約30年間勤務し、いくつかの試薬や薬品で特許を取った。ある程度の大金を手にして、55歳で退職。
子どもたちもずっと昔に手を離れていたので、しばらく夫婦で世界中を旅して回ったという。そのうち農業に興味を持つようになり、59歳で今住んでいる里山を買い取り、そこで妻と二人で農業に関する勉強と実際に野菜作りを始めた。特に野菜の品種改良に興味を持ったようで、大きなガラス張りの実験室を建てて、そこで色々実験的なことをしていたようだ。藤田さんは、「妻は美人で、歳をとると更に美人になった。おまけに頭が良かった」と常々自慢していた。若い頃に一目惚れで、2年近く積極的にアプローチを続け、妻の両親の反対を押し切って駆け落ち同様に結婚したのだという。若い頃から行動力のかたまりだったのだろう。
約10年間、その里山で妻と2人で暮らしていたが、3年前に妻は突然の病死。しかし、2年前、孫の昭君がすぐ近くの国立大学に合格したこともあって、一緒に暮らしてくれるようになった。
昭君は一人息子で、東京の両親から離れてやってきた。両親も一人暮らしの父親のために、積極的に同居を勧めてくれたのだろう。昭君はとても好奇心旺盛で、優しい孫だと藤田さんも常々自慢していた。また藤田さんのやっていることにも興味津々で、色々と手伝ってくれるようになった。藤田さんはとても嬉しかったという。生活は充実して楽しかったし、まるで自分の跡取りができたような思いだった。
目標だった野菜の品種改良ももう少しのところまできたそうだ。
しかし1年前に藤田さんは脳梗塞で倒れた。寒い春の朝だった。いつものように畑仕事に出たのだが、意識を失って倒れたらしい。2年生になったばかりの昭君が「大学に行くよ」と声をかけに行って発見し、救急車を呼んでくれた。すぐに入院したが、はっきりとわかる麻痺が残ってしまった。
状態が落ち着いてリハビリが始まり、2ヶ月目にはなんとか歩けるようになったがとても農業ができる状態ではなかった。歩行は実用的ではなく、すぐに転倒しそうになる。
昭君は週に3~4回は病院に来ていたとのこと。野菜はちょうど春先に植え付けの準備をしていたところだったので結局その年は野菜や新作の野菜の植え付けは諦めた。昭君は時間ができたせいだろう、「今度バイトを始めたよ。楽だし、小遣いになるので少し続けるつもり」といっていたらしい。例の青木と関わることになったあのバイトである。
初のバイト代で両親にはこの地方の名物の饅頭を送り、藤田さんには電子メモ帳を買ってくれたらしい。藤田さんはいつもそのメモ帳を手元に置いていた。そんな状態で3ヶ月が経ち、「そろそろ退院の時期です」と病院から言われた。
息子夫婦が慌てて東京から飛んできて、「何とかするからまずは近くの老健に入ってくれ」と頼むので、藤田さんは渋々老健に入所することにしたのだ。実際のところ、まだまだ一人で暮らせそうにはない。最初、老健にきたときは、藤田さんの主担当は先輩で、僕は副担当だった。
その初日、先輩と一緒に藤田さんの様子を見た。初めて見た藤田さんの歩行は、ただ全身に力を入れてがむしゃらに前に進もうとしているように見えた。とても努力をされて、ひたすら歩こうとされるため全身が硬くなりすぎて、全身が電信柱のように硬くまっすぐのまま歩かれる。
健側の下肢を中心に立たれ、麻痺側下肢へ重心移動があまり起こらず、結果、患側下肢で支える時間が極端に短いので、健側下肢の歩幅が小さい。麻痺側下肢も小さな分回しがみられる。全体に硬くなっているせいで各関節の可動範囲が小さくなっているのだ。
それなのに速く歩こうと一生懸命に次から次へと脚を振り出されて、結果、小刻みの歩行でちょこちょこと前進される。非常に効率の悪い歩き方で、しばしばバランスを崩すような様子が見られる。麻痺側上肢も硬く屈曲して体幹に引きつけている。額に玉の汗を浮かべ、息を弾ませながら歩かれる。
二十メートルも歩くと、もう息が切れ切れの様子だ。しかし、立ち止まって一休みされるとすぐにまた歩かれる。歩こうという意欲だけはとても高いようだ。
今思うととても殺人などできる運動状態ではなかった。カルテには病院からの報告書が挟まっていた。「リラクゼーション・テクニックやストレッチなどで過緊張を落とし、可動域を拡大しながらの歩行練習を続けてきたが、病的に全身の過緊張が強く、非効率的な歩行である。バランスも悪く、まだ実用的なレベルではない。
本人の希望は在宅での一人暮らしだが、息子夫妻の希望は、長期に療養できる施設への入所である。
またリハビリは熱心だが、頑固で協調性がなく、セラピストの言うことには従われない傾向がある」とある。
先輩は「頑固で言うことを聞かないのか。まあ、そんな感じだな。骨が折れそうだな」などと言っていた。僕は逆に自分の担当でなくて残念だった。この手の運動状態の人は、やり方次第で劇的に改善するだろうと思ったからだ。(その4に続く)
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小説から学ぶCAMR その2
刑事が帰った直後からマスコミの取材攻勢が始まった。デイケアから帰るまでは、職員がマスコミの取材を断ったが、マスコミ陣は家に帰った利用者さんを追って取材したようだ。利用者さんの何人かは取材に答えたらしい。翌日のテレビには、その利用者さん達が「藤田さんは正義のヒーロー、みんなのために悪い奴をやっつけてくれた」といった内容の話を誇らしげにしていた。僕はひたすら口をつぐんだ。特に担当理学療法士だった僕へのマスコミ陣の群がり方がひどかった。事務長もマスコミ陣の非常識さと厚かましさに目が丸くなった。「これでは仕事にならんし、何か事故が起きたら大変だな」と言ったので、「しばらく休みをいただけませんか?1週間もすれば収まると思います」と言った。
事務長はいささか驚いたようだ。「まあ、何も休むことはないよ」という。それでも僕はこの状況から逃げ出したかった。「僕が担当した利用者さんがリハビリでよくなって、殺人を犯したのは少しショックだった」と伝えた。事務長は、「判らんでもないが、海、お前が悪いことをしたわけじゃないからな」と言った。
僕は事務長と話した後、アパートには帰らず、施設から100キロ近く離れた街のこのビジネスホテルに泊まった。結局、事務長は休みに承知しなかったので、勝手に休むことにしたのだ。後輩にしばらく仕事を休むと伝えた。その後、携帯電話も切った。その夜から、この狭い一室で一日中テレビを見て過ごした。何もする気力が起きず、トイレ以外はずっとベッドの上で横になって過ごした。
マスコミの熱意は、一向に下がる気配はなく、翌朝には「どうしてその犯罪が起きたのか?警察は孫の自殺後にどんな対処をしたのか?そして不自由な身体でその殺人はどうして可能になったのか?」という方へ興味が移っていった。また藤田さんや青木の人物像を細かく報道し続けた。連日、マスコミは施設職員や利用者さんの間を跳びまわっては何か新しい情報がないかとつきまとっているらしい。
テレビには脳卒中を主にみている理学療法士が何人か登場して意見を言っていた。まとめると「脳卒中とは言っても麻痺の程度で運動能力は様々だ。麻痺が軽ければ可能だが、ある程度重いと杖なしで安定して歩くことは難しい。鉄の杭を持って力強く刺すくらいだからある程度麻痺は軽かったし、麻痺していない方の手脚の力も強く、体力もあったのだろう。普段から杖歩行をしていた?まあ、実際に麻痺の程度を見ないと何とも言えないが、時々麻痺は重くても、努力してびっくりするくらい良くなってくる患者さんはいますよ」といった話をしていた。なるほどと思った。
実のところ、僕は刑事の前で、藤田さんが殺人をやってのけるだけの運動能力が改善していることに気がつかない振りをしようとしていたのだ。僕がその殺人の共犯者になるのではないかと恐れていたからだ。実際に僕は藤田さんと具体的に殺人の話などはしていないが、彼が復讐を企てていることに気がついていたし、それでも積極的にリハビリを続けていたからである。というのも、まさか本当にやるとは思わなかったし、実際にやっても成功するはずがないと思っていたからだ。でも自分の振る舞いのいくつかは、殺人に協力したと思うところもあった。
だから最初は、刑事の前ではそのことに気づかない、間抜けな理学療法士としてとぼけようとしたのだ。
しかし刑事の前では落ち着かず、我ながら挙動不審なところがあったように思う。実際に疑われたかもしれない。とてもあんな状態では冷静にマスコミの取材を受ける自信がなかった。自分でも昔から嫌になるくらい、気が小さいところがある。今さら言っても仕方ないのだが・・・おまけに昨日の夕方以降、僕は姿をくらましてしまったわけだから、却って怪しまれたと思う。電話が通じないので事務長達も不審に思っているだろう。刑事達には、「殺人の練習を指導したに違いない」、と思われているに違いない・・・・ああ、なんてことだ!色々なことで混乱して頭の中で何かがグルグルと回っている。「なんでこんなことに!迂闊にもなんと色々とやってしまったことか」と後悔した。
さらにその日の午後のニュース・ショーで「新たな情報が明らかになった」という。「容疑者の通っていた施設の容疑者の担当の理学療法士が、不思議な練習を繰り返していたそうです。犯行のしばらく前から、坂道をダッシュして登る訓練を何度も繰り返していたことが目撃されていたそうです。しかも昨日の夕方から担当の理学療法士は、施設に居場所も伝えずに行方をくらませたそうです」
ああ、なんてことだ!ニュースを聞いた出演者達が、好き勝手に想像していろんな意見を言い始めそうだ。僕はすぐにテレビを切ってしまった。
事件直後からずっと言い訳を考えている。僕の仕事は利用者さんの日常生活課題の達成力を改善することだ。たとえば歩行するにしてもギリギリトイレまで歩ける程度では実用にならない。日常生活で余裕を持って動くためには、必要以上の十分な余力を持って歩けるようになって、たとえば何百メートルも続けて歩けて初めてトイレに安全に、安心していけるのだ。だからできるだけ運動能力を上げるだけ上げて行くのが僕の勤めだ。義務だ。
そしてなにより、十分に改善した運動能力をどう使うかは僕の問題ではなく、その方自身の問題だ。僕が口を出すことではない・・・・・などという考えが頭の中をグルグル回る。
テレビを消して、静かになった部屋の中でベッドに横になり、しばらく天井を見ているうちに少し落ち着いてきた。ふと何かを思いついた訳でもないが、なんとなく起き上がり、鞄からノートパソコンを取りだした。そうだ!なんで早くこれをしなかったのだろう、と思った。
昔から混乱した気持ちや考えは、できるだけ文章にするようにしてきた。そうすると気持ちが落ち着いたり、考えがまとまったりすることを知っていて、ずっとそうしてきたのだ。急に気力が湧いてきたような気がした。僕はパソコンに向かった。(その3に続く)
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