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みなさん、ハローです!
「CAMR Facebookページ回顧録」のコーナーです。
今回は「知恵の樹を読む!(その3)」です。
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知恵の樹を読む!(その3)2013/2/3
前回の続きです。
マトゥラーナらは、外部にあるいかなるものについての経験も、「そのもの」が”描写”の中に立ち現われてくることを可能にする人 間の構造によって、特別のやり方で価値づけられて[有効化されて]いる、と続けます。「認識」という現象は、何か客観的な事実や対象があらかじめ存在し、その表象を受け止めることではありません。僕たちの人間としての存在にかかわるさまざまなプロセスが、僕たちの認識を作り上げるのです。
ここで箴言を二つあげています。
「すべての行為は認識であり、すべての認識は行為である」
「いわれたことのすべてには、それをいった誰かがいる」
認識という行為にかならずつきまとうこれらの性格は、いわゆる客観的・科学的と考えられている立場からみると、まるでつまづきの石か、エラーか、根こそぎにしなくてはならない説明上の残りカス だと思われています。そのため、前回取り上げた色彩の知覚におい ても、目の「錯覚」というふうに言われてしまいます。光の波長に基づいた客観的・科学的な了解の仕方が「正しく」て、そうでないものは「錯覚」だと。
しかし、認識がもつこれらの性格は、やっかいな残りカスや障害ではありません。認識を理解するための重要な鍵なのです。僕たちがどこからやってきてどこにゆくのかということを、いつも思い出させてくれる、二つの導きの灯のようなものだと考えなくてはならない、と言います。
堅苦しい文章が続いてすみません。なかなか難しくてよくわからない部分も多いのですが、とりあえず以下のような感じで了解しています。おかしかったらご指摘・ご教授お願いします。
・認識と行為は分けることができず一体である、そしてそれは、そ の時その場の状況における自分と世界との相互作用の結果創出される
・ある認識について語る時、記述する時には、必ず「観察者の視点 」で語り、記述している(ということは、視点が異なれば認識も異なる )
「知恵の樹」の続きは、次のシリーズ「オートポイエーシスを読む!」に統合していきます。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆
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