システム論の話をしましょう(その12)
前回運動システム内部の視点に立って見ると、「人の運動システムは必要な課題を達成しようとするし、ダメなら問題解決を図ろうとする」という運動システムの作動の性質が見えてきました。
すると脳性運動障害後に見られる様々な現象は、元々の疾患の症状に加えて、それに対する運動システムの問題解決が混じった状態ではないか、と考えるようになりました。
昔、急性期病院で見た光景が思い出されます。搬入された患者さんが健手でベッドの手すりをつかみ、必死に叫ぶのです。「落ちる!落ちる!助けてくれ!誰かがわしを引っ張るんじゃ!落ちる!なにを見とるんか?はよう助けてくれい!」もちろん患者さんはベッドの真ん中に寝ていて落ちそうにないし、誰も体を引っ張ったりしていません。そう感じているだけです。その様子を見て不思議に思ったものです。
今ならこう考えます。半身が麻痺します。麻痺した方の半身は弛緩します。弛緩した体は、可動性のある骨格が水の袋に入っているような状態です。水の入った袋は重力に押しつぶされて安定するまで広がろうとします。それによって健側の体は、患側へ引っ張られているように感じるのではないか?
また水の入った袋のような麻痺側の半身は、単に重りとして健側にぶら下がっている状態です。これでは重りとなって動くことを邪魔するだけです。
そして運動システムは動こうとしますし、そのために問題解決を図リます。つまり弛緩した部分を、体を硬くするメカニズムをかき集めてなんとか硬くし、一つの塊にするのです。一つの塊にすれば引きずってでも動けるようになります。
そして体幹の一部が硬くなれば、それを支点として重心移動や動きを出すことができるようになります。下肢が硬くなれば支持性が生まれ、それを支えにして歩けます。ぶらぶらしていた上肢は、歩行時に揺れてバランスを乱す原因になります。また家具などに引っかかると危険です。しかし硬くなって体の中心に固定されれば、バランスの安定を助けるし、ものに引っかかることもなくなります。
体を硬くするメカニズムは、たとえばよく知られているように伸張反射を亢進させるのです。またキャッチ収縮のようなメカニズムが知られています。(キャッチ収縮はもともと二枚貝の平滑筋で知られた現象ですが、現在ではこのキャッチ収縮を起こす一連のタンパク群に似たものが骨格動物の横紋筋でも存在することがわかっています)
つまりジャクソンが言った陰性徴候、つまり麻痺による筋力低下が主な症状で、陽性徴候(痙性麻痺、つまり体が硬くなる、伸張反射の亢進など)は、麻痺による弛緩で動けなくなった運動システムが、再び動き出すための問題解決ではないかと考えらます。
CAMRではこの体を硬くする問題解決は「外骨格系方略」と呼ばれる問題解決方略になります。つまりカニやカブトムシなどの甲殻類といった体の外部に骨格を持っている動物のように、体を硬くして支持を得ているからです。カブトムシは死んだ後でも立たせることができます。それは支持性が筋肉よりも外骨格によっているところが大きいからです。脳性運動障害では弛緩麻痺によって通常の筋力による支持性が得られないため、キャッチ収縮のような持続する筋収縮で体を硬くしているのではないかと考えられます。
CAMRでは、人の運動システムには今のところ外骨格系方略を含めて全部で6種類の問題解決方略があると考えています。もちろんそれらは問題解決とはいっても、障害後に多くのリソースが失われた後の応急的・場当たり的な対処なのです。健常の頃のように状況に応じて適切な対応を図っている訳ではありません。そのために、この問題解決が新たな問題を生み出すことも多いのです。次回はこの点について説明します。(その13に続く)
CAMR
アプローチ
オートポイエーシス
キャンペーン
システム
システム論
トイレ
ビア
マトゥラーナ
リハビリ
リハビリテーション
ヴァレラ
入門コース
医療
原因
原因解決アプローチ
可能性
因果関係
国立病院機構
多様
夜間
岩国医療センター
構成要素
状況変化アプローチ
状況的アプローチ
現象
理学療法
結果
脳卒中
脳細胞
自動車
行動パターン
要素還元論
視点
覚醒状態
解決可能
認識
課題主導型アプローチ
講習会
身体状況
転倒
運動システム
難病
高齢者
麻痺
p.s.ブログランキングに参加しています。クリックのご協力、ありがとうございます!
システム論の話をしましょう(その11)
さて最後は「内部の視点から運動システムの作動を見るアプローチ(CAMR)」の紹介です。
CAMR(Contextual Approach for Medical Rehabilitation:医療的リハビリテーションのための状況的アプローチ)は、これまでの「素朴なシステム論」の経験や「外部の視点から運動システムの作動を見るアプローチ(課題主導型アプローチ)」などのアイデアを取り込みながらここまで発展してきています。
そしてこんどはこの第3世代システム論と言われるマトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシスの中から使えそうなアイデアや視点を取り込んで現在の形になっています。
オートポイエーシスでは「運動システムの境界は自らの作動で作られる」とか「システム内部の視点で作動が語られる」といったアイデアがあります。(これらについての詳しい説明はしません。興味のある方は彼らの本を読んでみてください。なかなか難しいです(^^;)
最初これらのアイデアを臨床でどう使えば良いかを悩んでいたのですが、結局、単純ですが運動システムの立場になって何が起きているかを考えてみようと思い立ちました(イヤ、実に単純(^^;))つまり「システム内部の視点で作動を説明してみよう」と考えたのです。そうすると不思議なくらい「確かにその通りだな」と腑に落ちることが沢山ありました。
たとえば起立を考えてみましょう。認知症の方に「立ってみましょう!」と勧めます。すると1-2回試して「できん、立てん」と言われます。少し試みて、立てないと分かったんだな、と納得します。しかしその患者さんが夜中に立ち上がろうとして転倒したという事故報告を翌日に聞きます。患者さんの外部から見ていると、「身体状況をよく認知していなくて無理したんだな」と思ったりします。
しかし運動システムの立場から考えるとよく知らないセラピストにいきなり「立て」と言われてもあまり立つ意味が感じられないので課題達成にはあまり熱心ではないのかもしれません。でも夜中に立ったときは立つべき必然があったので、なんとか立とうと頑張ったのだと思います。
つまり運動システムは人にとって必要な課題はなんとか達成しようとしますが、意味や価値が低ければあまり熱心ではないのです。そして必要性というのは状況に左右される訳です。つまり運動システムの立場から状況と運動システムの作動を理解することが重要です。
また外部の視点から運動システムの作動を見ているときも気がついたのですが、もし課題ができないと、課題達成に利用できそうなリソースを身の回りに探し、その利用方法であるスキルを試行錯誤します。これは内部から見てもその通りで、なんとか課題を達成しようといろいろなものを利用しようと一生懸命なのです。
そうすると、運動システムは必要な課題はなんとか達成しようとするし、そのために利用可能なリソースを探し、スキルを実際に試してみるものなのです。また達成できないときは、なんとか問題解決を図ろうとするものではないか、と気がつきました。できなければ必ず問題解決を図るのではないか。もしそれが必要な課題なら!
「人の運動システムは必要な課題を達成しようとするし、ダメなら問題解決を図ろうとする」単純ではありますが、「これが人の運動システムの基本的な作動の性質の一つではないか!」と思えてきました。
確かに腰痛が出た時に歩く必要があれば、体幹を硬くしてなんとか痛みを防ぐという問題解決を無意識に図りますよね。他にも沢山の問題解決が見られます。腓骨神経麻痺で下垂足になると膝を高く上げてつま先が引っかからないように歩きます。
そうすると・・・ 脳性運動障害では、障害後に見られる現象はすべて症状と見なされています。ジャクソンが脳性運動障害後の現象を症状として陰性徴候と陽性兆候に分類したように。でも先の仮説、「人の運動システムは問題が起きると必ず問題解決を図るのだ」と考えると全部が全部症状ではない、と考えられるのです。
「そうだ!脳性運動障害の人は一方的に症状に打ちひしがれている弱い人ではないのだ!僕たちは精一杯障害に立ち向かっている姿を見ているのではないか!」(その12に続く)
p.s.ブログランキング参加中!いつもご協力ありがとうございます!!
システム論の話をしましょう(その10)
課題主導型アプローチで特に気になったのは、要素を直接改善する訓練(筋力増強訓練や可動域訓練など)や特に徒手的療法を、アメリカの課題主導型アプローチを提唱したセラピスト達が排斥したことです。現在の課題主導型アプローチの状況は知りません。が、2011年のDarrahの論文でも「課題を通して改善した可動域や筋力は、直接それらを改善する訓練と比べても違いはなく、むしろ実用であり無駄のない点では課題主導型アプローチの方が優れている」などという論文も見られました。適切な課題練習だけやっておけば良いと言うわけです。
僕が実際にシカゴで見学したのも整形外科の患者さんでした。彼は苦もなく課題を達成し、繰り返していましたし、それなりに担当セラピストも効果に手応えを感じていたようです。整形疾患では失われたリソースは局所的で、適切な選択圧をかけるとリソースやスキルにそれに応じた変化が起きるということでしょう。
ところが脳性運動障害に場面を移すと、ことはそんなに簡単にはいかないということは容易に想像がつきます。重度になればなるほどできる課題は限られてきて少々条件を変えても、できる事はあまり広がってこない。たとえば軽度の脳性運動障害者であれば適切な運動課題をすると、尖足歩行が足底をつけた歩行に変化し、安定するなどの改善が見られます。しかし重度者では変化が見られません。麻痺で筋力や柔軟性というリソースは激減し、アクティブな運動をしても変化しません。できる課題が限られているし、それらを繰り返しても大きな変化は見られないのです。
そこでたとえば上田法を実施し、体幹の可動域を改善した後では運動課題実施に明らかに変化が見られます。運動範囲や重心の移動範囲が広がり、それまで見られなかった動きが見られるようになり、新たな動作ができるようになることもあります。
また整形疾患においてもマニュアル・セラピーで痛みを改善すると、力も出やすく動きが良くなりますし、精神的な変化も大きいです。どうも徒手的療法や要素的な訓練も併用するべきではないか、利用は推奨するべきではないか、というのが一般的な臨床家の経験ではないでしょうか? 課題主導型アプローチが徒手的療法などを排斥した理由は二つあると思います。
一つは多くのセラピストが「ハンドパワー」のような非科学的な幻想を徒手的療法に抱きがちであることを、当時のシステム論を提唱したセラピスト達が忌み嫌っていたこと。これについては1991年に発行されたⅡSTEPのproceedingsに明確な記述があります。
もう一つがテーレンらの研究が「正常発達」に関するもので、健常児を対象にしたものだからです。健常児は豊富な運動のリソースを持っています。また動作を通して筋力や柔軟性のリソースを自分で増やすことができるし、自分にとって価値のあるリソースを見つけ出すスキルも十分に持っています。そんな子どもたちの運動変化を見ていくと、いざりの様な一つの運動に囚われ頑固な状態であろうと、強い選択の圧力をかければ必ず運動変化を起こし、這い這いや歩行に移行します。それは健常児がそのように変化できるような豊富なリソースと多彩なスキルの基礎を持っているからです。
そしてテーレンらの研究ではリソースの貧弱な障害児は対象ではなく、一切触れられていません。テーレンらが語っているのは健常児の運動システムの作動の様子なのです。この健常児の様子をそのまま重度の脳性運動障害達にも当てはめてしまったのではないか、と考えられます。重度の脳性運動障害では、運動に非常に重要な筋力などのリソースが多く失われています。これではいくら課題を変化させ、選択圧をかけても変わりようがないのです。初期の課題主導型アプローチでは、長所ばかりに焦点が集まり、この点に対する配慮がなかったのだと思います。(現在の状況は知りませんが^^;)リソースが貧弱な障害では要素を変化させる、あるいは新たに環境リソースを持ち込むタイプのアプローチが重要になるというのがやはり一般的な経験でしょう。
実はドイツに3回ほど上田法講習会の講師として行ったことがあります。その時もドイツに紹介された課題主導型アプローチについて、知り合ったセラピスト達が反感を持っていました。
反感のポイントは「徒手的療法を排除するのはシステム論からの必然の帰結なのか?」と言うことです。もちろん違いますよね。システム論のアプローチなら、状況を変化させることが目標となりますが、逆に手段は特定していません。徒手的療法で変化が起きるなら当然利用するべきです。
先に述べたように当時のアメリカのセラピスト達の徒手的療法に対する偏見が働いていたのだと思います。ちょうどコロナ以前に「マスクは医療職以外には効果はない」と述べていたアメリカのCDCの公式見解のように、科学的な装いをしていても、実際にはマスクに対する文化的偏見にバイアスされたのと同じではないか?同様にテーレンのような科学の徒の研究を基にしていても、個人の価値観という偏見が載っかってきたのではないか?・・・とはいえ、それが人間というものなのでしょう、注意しながら進むだけです。
さて、次回から「内部の視点から運動システムの作動を見るアプローチ(CAMR)」の紹介です。(その11に続く)
p.s.ブログランキングに参加しています。クリックのご協力、ありがとうございます!
システム論の話をしましょう!(その9) さて、こんどはアメリカの課題主導型アプローチの実際の問題について伝えておきたいことがあります。
1991年の2月の凍てついた朝、僕はアメリカのシカゴの整形外科クリニックを訪れました。当時この最新の「課題主導型アプローチ」の現場を見学させてもらえることになったからです。
僕が見たもの。まずセラピストは患者に課題を出して、その内容を詳しく説明し、話し合います。そして患者を訓練室に残し、自分はさっさと机に引き上げ、コーヒーを飲みながら患者の様子を見ているのです。
セラピストが僕に向かって説明します。「患者に必要なのは適切な課題だ。課題達成経験を繰り返し、更に次のより困難な課題に挑んでを繰り返すことで課題達成能力や適応力が改善していく」みたいな。(英語の苦手な方なら分かると思いますが、その場の状況と聞き取れる単語から想像するしかないのです(^^;それにこのアイデア自体は本で勉強していたので)
「なぜセラピストは彼のそばを離れる?」と聞くと「彼は実生活では1人で課題達成の方法を見つけなければならない。セラピストがそばにいてセラピストの助けを借りる状況は彼の助けにならない。彼は試行錯誤を通じて1人で課題を達成する方法を身に付けた方が良いし、実際に身に付けることができる」と答えたように思います。(英語力の不足もあり、あまり正確ではありません(^^;)
「従来の徒手による可動域訓練は?」と尋ねると「課題を通して必要な身体の構成要素は改善されていく。あの方は足関節が硬いが、両手で支えながら不安定板に乗ることで痛みなく必要な可動域も筋力も改善されていく」といった説明でした。(英語力の不足もあり、以下同文(^^;)
僕はきつねにつままれたように感じました。こんなのが最新の訓練なのか?
僕は悶々としました。別にセラビストがいても問題ないじゃないかと思ったのです。自己組織化されるものなら、セラピストがいればそれなりの、いなければ自然に別のやり方が組織化されるだけ。正常歩行を勧めるセラピストのそばではできるだけ分回しを押さえようとするけれど、1人の時は盛大にぶん回し歩行をする患者さんなどがその良い例です。状況に応じて変化する訳だから。(でも英語しゃべれないから伝えられない(^^;)
あるいは親に手伝ってもらって泳ぐようになったり、自転車に乗ったりするのと同じことではないか?親に手伝ってもらったから、次から親がいないと泳げないという理屈と同じではないか。運動システムは一度泳ぐようになると、泳げなかった頃には戻れないのです。セラピストはそういうことには関係ないのでは?
それに課題を出すだけならセラビストのリソースとしての価値はあまりないのではないか、などとも感じました。セラピストならではというか、一人の人間としてももっと意味や価値があるはず・・・・でも英語しゃべれないから以下同文)
もしかしたらこれは課題主導型アプローチそのものというよりもそのセラピスト個人の問題かもと思っています。ただこれが初めての課題主導型アプローチとの出会いだったので、印象が良くなかった・・・・という、単に世間話になってしまいました(^^;)誰か実際のところを教えてくださると助かります。漠とした話で申し訳ない。次回は課題主導型アプローチの問題についてもっと根拠のある話をしますぜ(^^;(その10に続く)
p.s.ブログランキングに参加しています。クリックのご協力、ありがとうございます!
システム論の話をしましょう(その8)
今回は「課題達成をリソースとスキルで説明する」というアイデアの有効性についてもう少し検討してみます。
従来学校で習う視点では、起立ができないと四頭筋などの筋力検査を行い、弱っている筋の筋力を改善するというアプローチを学んできました。つまりシステムの作動ではなく、構造を中心に考えます。特に四頭筋が弱っていれば、座位でおもりやゴムベルト、徒手などで四頭筋力を増やすという方法もよく行われてきました。
しかしこれではリソースの改善だけを考えたアプローチになってしまいます。座位で四頭筋だけ鍛えれば起立できるかと言えばそうでもないからです。たとえば「椅子に座って、おもりを足首につけて膝を伸ばす」課題は、四頭筋筋力を改善するためによく用いられる方法ですが、これをスキルの視点から見ると「骨盤と大腿を座面で固定され、下腿を持ち上げる」というひどく単純なスキルを練習していることになります。
でも実際に起立では、四頭筋は「座位での広い基底面から、脚だけの狭い基底面に大きく前方・上方へ重心を移動しながら、なおかつその狭い基底面内に重心を保持して身体全体を上方に持ち上げることを他の全身の筋群と協調しながら行うスキル」の中で働いているのです。
座位でのおもりをつけての四頭筋訓練はほぼ筋繊維を太くしているだけで起立に必要なスキル学習はまるっきり行っていないのです。起立に必要なスキルは全身的なものです。起立が危うい人は全身的に試行錯誤を通して必要なスキルを学ばなければなりません。つまり起立できるようになるためには実際に起立練習をして、起立のためのスキルを学習する必要があるのです。
座位で筋トレをすれば、また改めて起立練習で起立のためのスキルの練習をし直す必要があります。もちろん起立練習が到底無理なら、座位でまず筋繊維を太らすことには価値があると思います。しかし、少し手伝ったり、椅子の座面を高くしたり、前方の手すりを用意したりと利用可能なリソースを増やしてあげることによって、起立の課題達成がなんとか可能なら、最初からそのような形での起立の繰り返し練習をした方が効率的だし患者さんの達成感や満足感も上がるでしょう。
またリソースとスキルという視点で見るとこれまで理解できなかったいろいろな運動の現象が理解できるようになります。たとえば運動学習の効果の転移です。有名なところではテニスのスキルはラケットで球を打つ同じような運動の形に近い卓球には転移しないのに、形はまったく似ていないスピードスケートと自転車競技の間では明らかに運動学習効果の転移が見られます。(日本でも冬のオリンピアであるスピードスケートの橋本聖子さんが夏のオリンピックの自転車競技の代表になって話題になりました)
実は運動の形は似ていなくてもスピードスケートと自転車競技は、スキルの視点からはとても似通っていることがわかります。どちらも「狭い基底面を持つ道具の上で、バランスを保ちながら左右交互に重心移動をし、体重移動した片脚を力強く下方に踏みしめる」というスキルが共通しているのです。リソースや運動の形はまるっきり異なっていても、似通ったスキルを使う課題同士なら運動学習の効果の転移が起こるというわけです。
だから歩行を改善するなら、「立位でバランスを保って交互に左右への重心移動をしながら、片脚で体重支持しては体重支持しない方の片脚を持ち上げるような運動課題をすれば、これで身に付けたスキルは歩行へ転移する」と考えることができます。
またどのリソースをどのように使うかを見ることで、より実際的な運動分析を行うことも可能です。(CAMRではこれを「Resource-Skill Analysisリソース-スキル分析。RSAと略す」と呼んでいます)たとえば前方の手すりと上肢で主に前方への重心移動に使っているのか、体の持ち上げに使っているのかを見ることで運動システムが何を苦手にしているかが分かります。片手で手すりを持ち、前方への重心移動に使っているなら、わざわざ手すりと片手というリソースを「前方への重心移動」のために使っています。つまり前方への重心移動が苦手なのです。この場合、「体幹の柔軟性リソース」を改善して「手すりと片手というリソース」と置き換える、つまり手すりがなくても起立ができるようにすることもできます。(その9へ続く)
p.s.ブログランキングに参加しています。クリックのご協力、ありがとうございます!
システム論の話をしましょう(その7) 動的システム論も生態心理学も、非常にたくさんの面白いアイデアが詰まっています。そんな中から、臨床で使えそうなものとして僕が選んだのは「運動は課題を通して組織化される」と「運動をリソース(資源)とスキル(技能)の視点で見る」という二つのアイデアです。具体的に見てみましょう。
臨床である課題を提案すると、患者さんはその課題を達成しようとして試行錯誤を行います。
たとえばしばらく立っていない患者さんに「立って見ましょう」と言います。すると患者さんは両膝に手を置いたり、片手を前に出してさまよわせたりします。おそらく手すりのようなものを前方に探すのでしょう。あるいは座面に両手を置いて力を入れたりします。そして座面に体を持ち上げるための手応えを感じると両手に力を入れて立ち上がろうとします。お尻が浮き上がりますが、すぐに落ちてしまいます。そして試みを諦めてしまい、「できんよ」と言います。
両足に加え、両手と座面をリソース(資源)として利用すれば立ち上がれそうですが、立ち上がった後の立位保持に不安があるのかもしれません。人によってはこれらの試行錯誤は10秒位の間にすべて終わってしまいます。始まりから諦めまで割と短時間で、人によっては見逃してしまいそうなくらい短い試行錯誤です。
そこでセラビストがパイプ椅子をリソースとして、患者さんの前方に背もたれ側を向けて置いて「立ってみましょう!」と声をかけます。患者さんは再び両手を何通りかに置いてみます。左手をパイプ椅子の背もたれに、右手を座っている座面に置いたりして立ち上がろうとします。課題達成のためのリソースの使い方がスキルで、身体を含めたいくつかのリソースを様々なスキルでいろいろに試しているわけです。
最終的に両手で座面を押し、お尻が浮き上がったところで片手をパイプ椅子の背もたれに伸ばし、それを支えにしてもう片手を伸ばして両手で背もたれを持ち、体を起こしながらようやく立ち上がることができました・・・
「リソースとは課題達成に利用できそうな資源」であり「スキルとは課題達成のためのリソースの利用の仕方」です。このように課題達成の過程をリソースとスキルのアイデアで説明すると、患者さんが何をどうやって課題を達成しようとしているかが分かりますし、説明も比較的簡単で、患者さんの運動システムの作動がより身近に実感を持って観察できるようになります。
たとえば上記の立ち上がりですが、下肢や体幹の筋力あるいは柔軟性という身体のリソースが低下していて、健康なときのように体幹を前傾して両脚で体を持ち上げるというスキルでは課題を達成できなくなっています。そこで上肢などの身体リソースに加え、座面や椅子の背もたれといった環境内のリソースを、支持や重心のコントロールのために利用します。また片手を背もたれ、片手を座面に置いたりしてそれらのリソース利用のスキルを試行錯誤し、最終的に課題達成しますよね。
「患者さんは課題達成の過程を通して、利用可能なリソースを探し、スキルをいろいろに試行錯誤しながら課題達成の運動を生み出し、修正している」ことを実感することができます。まさしく「運動は課題を中心に組織化される」訳です。
ここからは余談です。 臨床で見ていると、試行錯誤があまりにシンプルで短い患者さんが多いですよね。「どうしてもっといろいろと試してみないのだろうか?」と思います。もっと探れば隠れた可能性に気がつくかもしれないのにと何度歯がゆく思ったことか。しかしそれこそが課題達成の調整を行うためのアフォーダンスという情報をリソースとして患者さんが利用しているのだろうと思い直したりもしました。
たとえばそのような例としてダーウィンの「土とミミズ」の話がリードの本に紹介されています。
ミミズは巣穴をいろいろな葉っぱで塞ぎます。巣穴の湿度と温度を保つためと考えられます。ミミズは穴に引き込みやすいように狭くなったところをくわえて引き込み、穴を塞ぎます。合理的ですよね。ダーウィンはいろいろな形の葉っぱやいろいろな形に切った紙を巣穴のそばに置き、どのように穴を塞ぐかを観察したのですが、やはり比較的簡単に細くなった引き込みやすいところをくわえて穴に引き込みます。最初に広いところをくわえた場合はくわえ直すのですが、それほど細かく何度も試行錯誤するわけではなく、すぐに引き込みやすいところを見つけてしまいます。実際試行錯誤はあるにしても非常にシンプルです。ミミズはどうやって引き込みやすい部分を知覚するのでしょうか?そこでミミズは課題達成のために利用可能なリソースの利用方法を特定する情報、すなわちアフォーダンスを利用しているのではないかといいます。
アフォーダンスはミミズの引き込みやすい部位を「くわえる」という運動を選択させるような情報で、ミミズはそれをくわえて動かすという探索を通して知覚しているのだという訳です。
そして人の運動システムでも同じことが行われているのだろうと思います。リソースにおける課題達成の可能性を少し試しただけで運動システムは結果が分かってしまうのだろう、と。試行錯誤をすぐにやめてしまう患者さんを見て、歯がゆく感じるセラピスト。そこにリソースを豊富に持っているセラピストとリソースの貧弱な患者さんの運動システムの違いがあるのだろうと感じたりしました。
つまりセラピストの運動システムはリソースが豊富なのでいくらでも探索の可能性を見つけ出してしまうのです。逆に重度麻痺の方ほど探索が短く素っ気なくなるのも、リソースが貧弱なためすぐに探索が終わってしまうからではないか。
患者さんが探索を続けるためには新しく達成可能性のあるリソースが加わるか、それを発見する必要があるのだ、と。時にセラピストの工夫したリソースやアドバイスが探索を再開させるのはこんな背景があるのだと思います。分かりにくい話だったらごめんなさい(^^;(その8に続く)
p.s.ブログランキングに参加しています。クリックのご協力、ありがとうございます!
システム論の話をしましょう(その6) さて、2番目の分類は「外部から作動を見るアプローチ」です。この代表的なものの一つが「課題主導型アプローチ(Task Oriented Approach 以下TOAと略す)です。このアプローチの基礎となっているのがテーレンらの動的システム論であり、ギブソンの生態心理学です。
テーレンらによる動的システム論は外部から観察される姿勢や運動の基になっている運動システムの作動を物理学の枠組みから理解しようとします。動的システム論には、自己組織化、アトラクター、コントロール・パラメータ、多重安定性など多くの魅力的なアイデアがあります。これらのアイデアは僕たちが臨床経験を通じて漠然と感じていた運動システムの性質やいくつかの特徴的な運動状態を明確な言葉で表して理解を助けてくれると感じています。
さて、前回システム論は作動に焦点を当てていると述べました。つまりテーレンらは研究を通して「運動がどのように生まれ、維持され、変化していくか?」といった運動システムの作動を明らかにしているわけです。
テーレンらは心理学者ですが、正常運動発達を研究しました。それまでは一般に脳の中に正常発達の設計図があり、これに沿って運動発達が起こると考えられていたのですが、テーレンらは数々の研究から運動発達(運動の変化と安定)はあらかじめ決められた設計図はなく、様々な要素の相互作用から自己組織的に起きていると示したわけです。
もう一つ、生態心理学はアフォーダンスで有名なJJギブソンによって始められ、エレノア・ギブソン(以下、EJギブソンと略す)やエドワード・リード、日本では佐々木正人といった魅力的な心理学者達がいます。テーレンもその著書でエレノア・ギブソンに大きな影響を受けたと書いています。
生態心理学も脳が感覚を入力し、脳の中に世界像を作り、そしてそれを基に出力つまり運動をコントロールするというそれまでの脳が中心の常識的な考えを否定します。そうではなくて、脳は単なる調整役だというのです。たとえ神経系のない生物でも環境と出会い、うまく関係を築いています。元々そのような能力は生物が本来持っているものです。もちろん神経系はより高度に世界と関係作りをするために役立っているわけですが、それでも進化上は神経系は後から生物に乗っかってきたものです。
それに知覚とは動くことと言います。動くことによって動物にとっての必要な情報が知覚できる訳です。・・・まあ、そんな感じです。
テーレンらもギブソンらも心理学者ですが、運動を通して運動変化や知覚、認知のことを研究します。デカルト以来の西欧社会の思い込みの一つである心身二元論(機械の体とそれに乗っかっている心の二つが存在している)の伝統を否定しているのです。あるいは人の体を機械に、脳をコンピュータのように喩えることが間違いだと。生物は機械とはまるっきり違った存在だというあたりが基本になります。 (これらのアイデアについてはここでこれ以上説明することは控えます。正直、僕は未だにわからないことが多いのです(^^;特にアフォーダンスは苦手(^^;詳しく知りたい方はイラストのお薦めの文献に当たってください)
さて、この両者を基にして生まれた課題主導型アプローチは、またまた僕流に間違いを恐れずに言ってしまえば、以下のようなアプローチです。「運動は適切な課題を繰り返すことによって徐々に課題達成に向けて調整される。つまり運動は課題によって生まれ、成熟する。従って患者にとって必要な課題と課題の実施環境条件を提供することがセラビストの仕事である。セラピストは課題と実施環境を調整し、工夫し、患者にとって相応しく進化させ、提案することで患者にとっての必要な運動適応能力を改善していくことができる」のです。 まあ、このような理論的な説明は往々にして僕たち臨床家には届きにくいものです。臨床家にとっては実際にやってみることでしか、有効かそうでないか実感できないものです。
実際、僕自身は臨床でやってみて「素朴なシステム論的アプローチ」の有効さに気づきました。そしてこんどはこの「セラピストが患者に『課題』と『実施条件』を通して訓練する」ことを意識して実施して経験してみることにしました。理論というアイデアの「問題解決の道具」としての有効性を自分自身で試してみたのです。そうすると臨床で自分や周りからの経験だけでは学べないような様々な視点に自然に気がつくようになったのです。(その7に続く)
p.s.ブログランキングに参加しています。クリックのご協力、ありがとうございます!
システム論の話をしましょう(その5) 前回は「素朴なシステム論的アプローチ」というアイデアを説明しました。これは真面目に経験を積み重ねたり、センスの良いセラピストなら自然に到達することができるシステム論的なアプローチです。今回からは「外部から作動を見るアプローチ」を紹介します。これは科学的研究に基づいており、もう個人の臨床経験だけでは到達するのは困難なレベルとなります。
さてその話を展開する前に、しつこいようですがもう一度、僕たちが学校で習っている視点を振り返ってみます。これからシステム論への理解を深める上で大事なことなのです。
僕たちが運動システムを理解すると言うことは、外部から姿勢や運動の形とその変化を見ていきます。そして目に見える構造と働き(筋や骨、関節、その他の内臓など)に姿勢や運動の形の変化を結び付けて理解するのでしたね。
一方システム論では、外部から観察される姿勢や運動の変化を身体構造に結び付けるのではなく、運動システムの作動に結び付けるわけです。つまり運動はどのように生じ、どう維持され、問題はどのように生じているかという視点で運動や運動変化の状態を見ていくわけです。前回素朴なシステム論的アプローチの第二段階で、身体が環境などと相互作用して慢性痛の安定した状態にあると述べましたが、これはまさしくシステムの作動によって生じた状態を見ているわけです。
僕たちが学校で習っている視点(要素還元論)とシステム論の一番異なっているのはこの点です。要素還元論では運動問題が起きると、目に見える構造や要素(筋力や柔軟性など)に原因を求めます。しかしシステム論では構造や要素より運動システムにどのような作動が起きてどのような状態が生まれているかを見ていくのです。つまり様々な要素の相互作用の結果生じているのはその状況だからです。まあ作動を見ていくのですが、作動自体は見えないのでその結果として起こる状況や状況の変化を見ていくことがシステム論の特徴です。
もっと言えば要素還元論では、問題が起きるとwhy?(なぜ?)と問を立てて要素や構造に原因を探し、その原因となっている要素や構造を何とかしようとします。
一方システム論では問題が起きるとhow?(どのように?)と問いを立て、どのような作動、つまりどのような状況で問題が起きたかを探るのです。問題解決は問題が起きるその状況を変化させる、つまり別の良い結果が出るような状況変化が起きる様に試行錯誤をすることになります。(これについての詳しい説明は拙書「PT・OTが現場ですぐに使える リハビリのコミュ力」金原出版 をご覧ください)
結局システム論と要素還元論との根本的な違いは、説明の焦点をシステムの構造に当てるか作動に当てるかの違いであると言えるのではないかと思います。
素朴なシステム論的アプローチにおいても、やり手のセラピストたちは言葉にはならなくても、システム論的な視点を経験を通して身に付けているわけです。そしてしばしば要素還元論とシステム論の視点を行ったり来たりしながら渾然とした思考の中で問題解決をしているわけです。
さて、この点を踏まえて次回から「外部から作動を見るアプローチ」を具体的に説明します。この代表的なアイデアは「動的システム論」や「生態学的アプローチ」とそれを基にした「課題主導型アプローチ」になります。(その6に続く)
p.s.ブログランキングに参加しています。クリックのご協力、ありがとうございます!
システム論の話をしましょう(その4) 「多要素多部位同時変化方略」は痛みだけでなく他の様々な障害の治療でも有効になります。たとえば尻餅転倒を繰り返す場合は、観察してみて「後方重心である」と気づくと、身体各関節の状態や全体のアライメント、筋力のアンバランス、痛み、基礎疾患などの全身の多要素の影響を考え、できる範囲で同時にアプローチしたりします。
先の慢性痛の話に戻りましょう。この「多要素多部位同時変化方略」によって以前より効果的に痛みにアプローチできるようになったのですが、それでも慢性痛の患者さんは繰り返しセラピストの元に通ってくるのです。それは患者さんが完全な治癒を求めたり、あるいはまた我慢できなくなるほどの痛みを繰り返し経験するからです。
そこでセンスの良いセラピストならさらに次の段階に進みます。「そもそもどうしてこの方は短期間に体を硬くして痛みの原因を作ってしまうのか?」どうも生活習慣や環境、仕事内容に関係がありそうです。こうして運動システムに関わる要素群は身体に限定されないで、環境や習慣、性格、教育、文化・社会の価値観にまで広がっていきます。
実際詳しく調べてみると仕事で同一姿勢を長く保持したり、プライベートでもテレビゲームで時間を費やし、ほとんど運動習慣がなかったりします。これでは痛みを繰り返してしまいますよね。そこでこんどは多要素多部位への徒手療法に加えて、アクティブな運動課題をホームワークとして出したり、痛みが発生する機序を詳しく説明したり、椅子や机、照明などの環境を改善したり、痛みを改善するには「手頃な運動習慣を持つこと」を勧めたりするようになります。
これが素朴なシステム論的アプローチの第二段階になります。第二段階では運動システムを皮膚に囲まれた身体に限るのではなくなります。運動システムとは、身体と物理的環境や社会・文化的な環境と相互作用する大きく複雑な関係性の上に成り立つシステムであると考えるようになるのです。(実際に言葉として意識している人は少ないと思いますけどね)
最初の段階(身体各部位・各要素が相互作用し合う)、第2の段階(身体は環境内での多様な要素と相互作用し合う)のこの二つの認識を基にしたものが「素朴なシステム論的アプローチ」です。
たとえシステム論を習っていなくても真面目に考えているベテランやセンスの良いセラピストはこのレベルに自然に達するものです。「たくさんの要素が相互作用し合って痛みが生じ、その痛みの状態は安定している。だから痛みの安定した状態をまず壊すには?」という視点に自然に気がついているのです。結構周りから「やり手」と思われているセラピストは、言葉にはならなくてもこのような幅広い視点と学校で習ったのとは異なる治療法略を自然に身に付けているものです。
さてCAMRではむしろここがスタート地点となります。ここから先に進むには科学的・哲学的な視点も必要になってくるので経験だけでは到達できないレベルとなります。(その5に続く)
p.s.ブログランキングに参加しています。クリックのご協力、ありがとうございます!
システム論の話をしましょう(その3) 社会一般では、問題解決のためには問題の原因を明らかにし、原因と問題の間に因果の関係を想定します。そして原因をなんとかするのが標準的な方法であると前回述べました。これは医療あるいはリハビリの世界でもおなじです。
たとえば学校で習ったように、痛みがあればすぐに身体構造に原因を探し、ある部位の筋膜の癒着だとか関節内運動の低下だとかある筋の過緊張だとか、神経の圧迫だとかに原因を探します。つまり評価を通して原因となる部位と要素を明らかにすると、その特定された要素や部位のみに徒手療法などで働きかけます。
そしてこれによって痛みを改善すると、患者さんは痛みが楽になったと喜ばれます。セラピストは「また痛くなったら来てくださいね」と送り出します。しかし1週間後には「先生、また痛くなったんです」と帰ってきます。調べてみるとまた前回と同じ原因なのですぐに治療、「また痛くなったら来てください」と送り出す・・・と慢性痛ではこれを繰り返すこともよくあります。
でもこれでは一時的に痛みを軽くしているだけでちっとも根本的な問題解決になっていないと考える様になりますよね。(もちろん1回きりで良くなることもあります。これには特定の条件が必要ですけどね)
そして経験を積んだり勘の良いセラピストは、一要素・一部位を原因にした単純素朴な因果関係だけではうまく解決しないと考える様になります。膝関節のモビライゼーションだけでは周辺の筋膜の萎縮や癒着によってまたすぐに動きの悪い状態に引き戻されてしまうのかもしれない。つまりある部位の筋膜の癒着は、周辺の他の関節内運動や他の部位の筋活動にも影響を与えあうのが当然ではないかと考えます。単純な一要素・一部位を原因とした因果関係ではなく、もっと広範囲な部位で様々な要素が関係していると考えるようになります。それで膝関節の痛みを治すために、下位では足部の関節モビライゼーションや足趾のストレッチやリリース、上方では股関節や腰部、更に頸部や上肢のリリースをしたり各部位の動きをよくしたりと多要素、多部位に同時に働きかけるようになります。
これが素朴なシステム論的アプローチの第一段階です。これはCAMRでは「多要素多部位同時変化方略」と言いますが、このレベルに達すると痛みや脳性運動障害に対する治療効果もこれまでとは異なった手応えを感じる様になると思います。でもまだまだ第一段階に過ぎません。(その4に続く)
p.s.ブログランキングに参加しています。クリックのご協力、ありがとうございます!