システム論の話をしましょう!(その14 番外編)
今回のエッセイは次回終わる予定ですが、その前に少し伝えておきたいことがあります。
今回のエッセイはシステム論の3つの分類を通して、リハビリに使えそうなアイデアを紹介しましたが、駆け足だったので有用なのに説明していないアイデアがまだまだたくさんあるのです。特にテーレンの動的システム論とリードの生態心理学に関するものです。(本当はベルンシュタインも説明した方が良いのですが、今シリーズではまったくスルーです(^^;))
そこで、紹介していないものも含め、今回主なアイデアについて簡単にまとめておこうと思います。(早い話、僕の覚え書きメモです)各アイデアは番号を打ってタイトル、内容をシンプルに記し、その下の矢印以降に僕の感想などを入れています。
最初の()内にあるテーレンはE. Thelen & L. Smith「発達へのダイナミックシステム・アプローチ 認知と行為の波発生プロセスとメカニズム」よりのアイデア。リードはE. S. Reed「アフォーダンスの心理学 生態心理学への道」よりのアイデア。
1. (テーレン)自己組織化: 行為と認知は創発的なものであり設計されたものではない。自己組織化とは決して魔法ではない。それは私たちの物理的及び生物学的世界のほぼ全てに内在する非線形性ゆえに起こるのである。非線形性(位相変位ないし相転移)は非均衡システムの特徴である
→非線形とは滑らかで連続した変化ではなく、突然別の相に変化するもの。運動変化は連続したものではなく、ある閾値に達すると別のやり方(質?)の運動に変化する。スポーツのような一瞬一瞬の運動変化であれ、それより長いスパンで起こる運動学習、あるいは運動発達にしても運動変化とは運動の質の変化が非連続に起こる。その時の状況に応じて運動は創発、あるいは選択されるから。
→脳卒中後に杖歩行をすると、ランダムに起こっていた杖や両脚の振り出しが突然3動作歩行に組織化されたりする。もし最初からセラピストが杖歩行のやり方を支配的に指示しているとなかなか気づかないで、連続した変化と理解するかもしれない
2.(テーレン)課題特定的:運動は(頭の中のスイッチによってではなく)課題によって特定される。課題達成の運動は課題それ自体によって組織化される(関節結合系・筋膜系・筋-腱膜系、循環器系、神経系など異なった系の間には相互の関係性が存在し、課題達成を通じて協調されてくる。ある要素・部位の働き・役割は状況によって変わってくる)
(リード) 「神経系は機能特定的」:神経系は、選択過程として機能する。行動の分化・変化の生物的基礎は、選択上の諸制約にこそあり、神経のメカニズムにあるのではない。行動の選択圧は環境内での動物の行為の実際の結果に由来するので、内的な神経パターンや動物の運動パターンには由来しない。
→これは本エッセイ中でも簡単に紹介しましたが、もう一度。神経系は出現する運動の形を決めているのではなく、決めているのは課題である。課題によって自己組織化する。リードは「神経系は選択する?」はて、未だに難しい(^^;)
3. (テーレン)アトラクター: 自己組織化において多数の変化可能な状態の中から一つの形態を選好する。あるいはその選好する形態に引きつけられていく。挙動の変動性が基本的な選好状態である
→脳卒中後に杖歩行を始めると普通は2動作歩行か3動作歩行かのどちらかに引きつけられる。3動作歩行をする多くの人は、2動作歩行が困難・・・
4. (テーレン)コントロール・パラメータ: 相転移(パターンや運動の相が突然大きく変化してしまう)を起こすパラメータ。
→原因ではなく条件と考えられる?T-caneでの2動作歩行をしていても、狭い通路に入ると突然3動作歩行に変わる。狭い通路では基底面が狭くなるので、基底面の広さがコントロール・パラメータとなる。
5. (テーレン)安定したアトラクター: 安定したアトラクターは深い井戸にはまったボールで喩えられる。変化が起きにくい状態。一般に運動システムには多重安定性が見られる。
→健常者の通常の平らな床の歩行は安定しているが、氷の上では突然変化して別の運動相(たとえば体を硬くしての小刻み歩行)に転移する。健常者には井戸がたくさんあり、状況によって選好される。
→多重安定性は健常者の運動システム。井戸は沢山あって状況によって選好される井戸(運動の相)が変化し、それぞれの井戸はまあまあ深く、安定していると考えられる。脳性運動障害では、井戸の数は少ない、あるいは重度になれば一つの深い井戸?
6. (テーレン)「制御パラメータが閾値に達する」: 非常に安定しているアトラクター状態でさえ「ダイナミックに安定している」。コントロール・パラメータの変化は連続的で、閾値に達すると全体は非線形に変化する(相転移が起こる)
→脳卒中後の2動作歩行で、次第に狭くなっていく通路を進むとある地点で、2動作歩行が3動作歩行に転移する。
→重度脳性麻痺で筋力(コントロール・パラメータの一つと考えられる)を強化すると連続的に増加するが、ある点で強化は止まり、相転移の閾値に達することがないということもありうる
7. (テーレン)ノイズ・揺らぎ・不安定性: これらは複雑系の安定性及びシステムの状態を評価するための有効な手段。
→不安定性が増大すると相転移が起きる前兆とも取れる。ノイズや揺らぎ、不安定性をどんな変数で見ていくのか?運動の軌跡の位相空間図?
8. (リード)基礎定位システム: 基礎定位システムはもっとも基本的な行為システムであると同時にもっとも基本的な知覚システム。変化する運動の中で一瞬一瞬に環境内に安定した姿勢を作り続けるシステム。遂行活動も探索活動も基礎定位システムを基に行われている。基礎定位は他の全ての機能的活動の必要条件。運動とは姿勢が入れ子化したもの
→パーキンソンや失調症、脳卒中などでバランスのとれない人は、基礎定位システムの能力が低下していると捉えられる。基礎定位システムの下位システムは複数あり、疾患毎に失われるシステムと機能は異なるので、問題解決のやり方は異なってくるだろう
簡単に羅列するとかなり難しく感じますね(実際に難しいけど)もちろん上記以外にも有用なアイデアはあるのですが、もう多くなりすぎてカットです(^^;)興味のある人はそれぞれの本に当たってみてください。(最終回に続く)
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「CAMR Facebookページ回顧録」のコーナーです。 今回は「CAMRの旅お休み処 シーズン2 その弐」です。
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CAMRの旅お休み処 シーズン2 その弐 「"疾患を選ばない"は、画一的アプローチを意味するか?」2013/2/26 CAMRは運動障害に対するアプローチですが、対象疾患を選びません。時々、「どの疾患の患者さんにも、同じことをするのですか?」という質問をいただきます。回答は、「はい」であり、「いいえ」です。はぐらかしてる訳ではありませぬよ。
CAMRは運動システムという視点で運動がどう起こっているかを見ますので、原因疾患毎のアプローチ法はありません。整形外科疾患であれ、脳血管疾患であれ、同じ運動をやります。歩行や立位については、写真で見ていただいたような重錘をつけての立位でのつま先立ちや膝挙上など。板跨ぎもよくやります。では、全員が全く同じことをやっているかと言えば、もちろん、そうではありません。
それぞれの課題設定には、その方の"状況"を考慮します。痛みがでやすいか、左右差があるか、身体が硬いのか、慎重派か、などなど。動きは同じでも、やり方は個別に設定します。「脳卒中だから、これ」ではありません。
疾患が異なっても、運動で問題になるものは案外シンプル(リソースという点からみると実感しやすいかも)で、共通に使えるものがいくつかあれば結構何とかなる、のかもしれませんね。
「じゃ、"多彩なスキル"って?」と言われそうですね。それはまた別の話で。
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「CAMR Facebookページ回顧録」のコーナーです。 今回は「CAMRの旅お休み処 シーズン2 その壱」です。
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CAMRの旅お休み処 シーズン2 その壱 「人によって、同じ"状況"を見ているとは限らない」2013/2/16
CAMRの旅も一巡りし、シーズン2に突入です!基本的な概念や用語については、ホームページの「人の運動変化の特徴」や「論文紹介」が充実してきましたので、少し横道にそれながら道草してみようと思います。
ホームページの論文その3に、「状況一体性」が説明されています。当アプローチは「状況」が重要な言葉ですが、これがなかなか一筋縄ではいきません。今、目の前に広がっている「状況」は、あなたの目にも私の目にも同じように映っているのでしょうか? こう書いて、「そうです」とくるわけはなく、「そうではない」ときそうですが、ここは「そうではないかもしれない」です。
ここで言う状況は、単にものの物理的配置を指すのではありません。客観的に物理的配置を述べたつもりでも、何を取り上げるかで記述者の思い(考え)から逃れることはできません。それを見る人の思いや考えを通して認識したものが、その人の捉えている状況です。これは他の人と一致していることもあれば一致しないこともある。同じ映画を見ても友達と感想が違う、と考えると当たり前のことでしょう?
一致することが良いことでも悪いことでもありませんね。一致させる必要性もない。そんなものなのだ、と思っておく、というところですね。
「だから、なんだ?」と思われるかもしれませんが、寄り道ですから・・・。
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システム論の話をしましょう(その13)
「運動システムは常に人にとって必要な課題を達成しようとするし、課題達成に問題が起きるとなんとか問題解決を図る」と前回述べました。
しかし誤解してはいけないのは、問題解決を図るといっても、問題は必ず解決されるわけではないということです。問題解決とはいっても、障害後に多くのリソースが失われた後の応急的・場当たり的な対処なのです。健常の頃のように状況に応じて適切な対応を行うことは望むべくもありません。運動システムは問題解決を図っていても、むしろ状況を悪くしてしまうことも多いのです。
たとえば外骨格系方略の問題解決を図っている人を沢山見ると、中にはどんどん硬くなって却って動きにくくなったり、あるいは過緊張のために不快や痛みに苦しんだりする人もいます。問題解決のはずがむしろ状況を悪くしているわけです。これは「偽解決」と呼ばれる状態です。(「偽解決」は短期療法などで使われるアイデアで、問題解決と思って実施したことが、逆に更に悪い状況を招いてしまうことです)
なぜ偽解決になってしまうかというと、体を硬くし始めたときには実際弛緩と比べて動きやすくなります。そうすると運動システムは上手くいった方法を繰り返してしまいます。元々障害後に沢山のリソースが失われて残ったリソースを利用し、選択肢もごく少ないので、それを繰り返さざるを得ないのです。体を硬くする元々のやり方ではなく、調整も上手くいかず、ひたすらできる事を繰り返すのです。だから体は次第に硬くなり、動きにくくなって更にそれが次の硬さの呼び水になります。たとえば硬くなった体を動かすための過剰な努力が必要になります。また硬さが痛みを生み、その痛みや不快刺激が防御的に更に硬さを生み出すわけです。つまり身体を硬くする問題解決が悪循環を生み出し、暴走してしまうのです。
また運動システムの問題解決が生み出すもう一つの問題は、「貧弱な解決」と呼ばれる状態です。これは最初に選ばれた問題解決が繰り返されて、なんとか課題は達成しているものの、その間に潜在的に筋力が回復したりしていてもそれに気がつかなくなってしまった状態です。最初の問題解決の方法が繰り返されるので、新たに回復した筋力などを使ってみる機会が失われてしまうのです。この潜在的に回復したリソースは「隠れた運動余力」と呼ばれます。もしこの「隠れた運動余力」を上手く使っていけば、運動課題達成のパフォーマンスはもっと改善するのですが、結局使われることなく、運動のパフォーマンスも改善することなく、停滞の状態になるのです。存在を気づかれなければ、ないのと一緒だからです。これは偽解決ほど悪い状態には見えませんが、長期的には患者さんにとって大きな不利となります。
脳性運動障害の患者さんは、元々の障害による弛緩麻痺(筋力リソースの消失・低下)の障害像に加えて、運動システム自体の問題解決の欠点ないしは副作用によって悪化した状態が加わってより複雑になっていることになります。
リハビリでは厳密には麻痺は治せないかもしれませんが、運動システムの作動の性質によって生み出された問題(偽解決・貧弱な解決)は障害自体ではなく、障害後の運動システムの作動の問題なのでリハビリで改善できます。そうすると「リハビリを受けて(状態)が良くなった」と喜ばれたりします。現場でも気づかずにこのアプローチをしている人がいて、「脳性運動障害に対する訓練効果」として説明しているのをよく見ます。基の障害にアプローチしているのか、障害に対する運動システムの問題解決(偽解決・貧弱な解決)にアプローチしているのか区別ができていないのです。
自分のアプローチが障害に対するものか、運動システムの作動に対するものかがはっきりするだけでも、自分のやっていることの価値や意味がより分かって仕事が面白くなります。(CAMRの講習会では様々な問題解決や偽解決・貧弱な解決の例がビデオでわかりやすく見られます。興味のある方は参加をお薦めします)(その14に続く)
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「CAMR Facebookページ回顧録」のコーナーです。 今回は「「リハビリの夜」を読む!(その6;最終回)です。
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「リハビリの夜」を読む!(その6;最終回)2013/3/23 第二章のコラム「脳性まひリハビリテーションの戦後史」の冒頭で、著者は「健常な動き」を目標としたようなリハビリについて、「少数派に過剰適応を強いる同化的な発想」と指摘しています。
「障害」という体験は、「ある社会の中で多数派とは異なる身体的条件を持った少数派が、多数派向けに作られた社会のしくみになじめないことで生じる生活上の困難のことである」とし、その責任を一方的に少数派に押しつけることはできないと述べています。しかし過去の歴史を見ると、社会を変えていくのではなく少数派に過剰適応を強いてきた、といいます。
リハビリ現場においても、著者が自分の体にとって負担の少ないやり方で動こうとするたびに、「その動き方は正しくありません!」と介入されたと言います。これも多数派にみられる「健常な動き」を、一方的に「規範的な体の動かし方」と決めつけて、少数派に無理強いするような同化的な発想だと述べています。
そういえば、セラピストの間ではよく「正常運動」という言葉が聞かれます。そこに同化的な発想は潜んでいないでしょうか? クライエントに理不尽な過剰適応を強いていないでしょうか?
今回で、「リハビリの夜」を読む!シリーズは最終回となります。これまで読んでくださった方々、どうもありがとうございました。
初回にも書きましたが、この本はセラピスト必読の書だと思います。一人でも多くの方に、熊谷先生の声に耳を傾けていただきたいと思います。また、今回は取り上げませんでしたが、ベルンシュタインの身体内協応構造から一歩進めて、身体外協応構造という興味深いアイデアも提案されています。興味を持たれた方がおられましたら、是非本書を手に取ってみてください。
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システム論の話をしましょう(その12)
前回運動システム内部の視点に立って見ると、「人の運動システムは必要な課題を達成しようとするし、ダメなら問題解決を図ろうとする」という運動システムの作動の性質が見えてきました。
すると脳性運動障害後に見られる様々な現象は、元々の疾患の症状に加えて、それに対する運動システムの問題解決が混じった状態ではないか、と考えるようになりました。
昔、急性期病院で見た光景が思い出されます。搬入された患者さんが健手でベッドの手すりをつかみ、必死に叫ぶのです。「落ちる!落ちる!助けてくれ!誰かがわしを引っ張るんじゃ!落ちる!なにを見とるんか?はよう助けてくれい!」もちろん患者さんはベッドの真ん中に寝ていて落ちそうにないし、誰も体を引っ張ったりしていません。そう感じているだけです。その様子を見て不思議に思ったものです。
今ならこう考えます。半身が麻痺します。麻痺した方の半身は弛緩します。弛緩した体は、可動性のある骨格が水の袋に入っているような状態です。水の入った袋は重力に押しつぶされて安定するまで広がろうとします。それによって健側の体は、患側へ引っ張られているように感じるのではないか?
また水の入った袋のような麻痺側の半身は、単に重りとして健側にぶら下がっている状態です。これでは重りとなって動くことを邪魔するだけです。
そして運動システムは動こうとしますし、そのために問題解決を図リます。つまり弛緩した部分を、体を硬くするメカニズムをかき集めてなんとか硬くし、一つの塊にするのです。一つの塊にすれば引きずってでも動けるようになります。
そして体幹の一部が硬くなれば、それを支点として重心移動や動きを出すことができるようになります。下肢が硬くなれば支持性が生まれ、それを支えにして歩けます。ぶらぶらしていた上肢は、歩行時に揺れてバランスを乱す原因になります。また家具などに引っかかると危険です。しかし硬くなって体の中心に固定されれば、バランスの安定を助けるし、ものに引っかかることもなくなります。
体を硬くするメカニズムは、たとえばよく知られているように伸張反射を亢進させるのです。またキャッチ収縮のようなメカニズムが知られています。(キャッチ収縮はもともと二枚貝の平滑筋で知られた現象ですが、現在ではこのキャッチ収縮を起こす一連のタンパク群に似たものが骨格動物の横紋筋でも存在することがわかっています)
つまりジャクソンが言った陰性徴候、つまり麻痺による筋力低下が主な症状で、陽性徴候(痙性麻痺、つまり体が硬くなる、伸張反射の亢進など)は、麻痺による弛緩で動けなくなった運動システムが、再び動き出すための問題解決ではないかと考えらます。
CAMRではこの体を硬くする問題解決は「外骨格系方略」と呼ばれる問題解決方略になります。つまりカニやカブトムシなどの甲殻類といった体の外部に骨格を持っている動物のように、体を硬くして支持を得ているからです。カブトムシは死んだ後でも立たせることができます。それは支持性が筋肉よりも外骨格によっているところが大きいからです。脳性運動障害では弛緩麻痺によって通常の筋力による支持性が得られないため、キャッチ収縮のような持続する筋収縮で体を硬くしているのではないかと考えられます。
CAMRでは、人の運動システムには今のところ外骨格系方略を含めて全部で6種類の問題解決方略があると考えています。もちろんそれらは問題解決とはいっても、障害後に多くのリソースが失われた後の応急的・場当たり的な対処なのです。健常の頃のように状況に応じて適切な対応を図っている訳ではありません。そのために、この問題解決が新たな問題を生み出すことも多いのです。次回はこの点について説明します。(その13に続く)
CAMR
アプローチ
オートポイエーシス
キャンペーン
システム
システム論
トイレ
ビア
マトゥラーナ
リハビリ
リハビリテーション
ヴァレラ
入門コース
医療
原因
原因解決アプローチ
可能性
因果関係
国立病院機構
多様
夜間
岩国医療センター
構成要素
状況変化アプローチ
状況的アプローチ
現象
理学療法
結果
脳卒中
脳細胞
自動車
行動パターン
要素還元論
視点
覚醒状態
解決可能
認識
課題主導型アプローチ
講習会
身体状況
転倒
運動システム
難病
高齢者
麻痺
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「CAMR Facebookページ回顧録」のコーナーです。 今回は「「リハビリの夜」を読む その5」です。
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「リハビリの夜」を読む!(その5)2013/3/16 今日は、(その2)で紹介したセラピストとクライエントの関係性のあり方から、「C.クライエントの体が発する信号を拾わずに介入される〈加害/被害関係〉」についてです。
指示通りに動けない著者に対して、セラピストは徐々に苛立ちを募らせてきます。そして著者を組み伏して、再びストレッチを始めます。しかし今度は最初の時と違って、思い通りの形にならない著者の身体に苛立ち、まるで粘土をこねるかのように、暴力的に押したり引っ張ったりしてきます。
ここに〈ほどきつつ拾い合う関係〉で感じられた心地良さはなく、あるのはただ、「痛み」と「怯え」と「怒り」だと言います。セラピストは著者が発するこれらの信号を拾うことなく、交渉できない他者、しかも強靭な腕力を持った他者として著者の身体に力を振るうのだそうです。
著者はABCの関係性に対応して、自身の体をそれぞれ「ほどかれる体」「まなざされる体」「見捨てられる体」と表現しています。
さて僕たちは、クライエントをまなざした事はないでしょうか? クライエントを見捨てた事はないでしょうか?
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システム論の話をしましょう(その11)
さて最後は「内部の視点から運動システムの作動を見るアプローチ(CAMR)」の紹介です。
CAMR(Contextual Approach for Medical Rehabilitation:医療的リハビリテーションのための状況的アプローチ)は、これまでの「素朴なシステム論」の経験や「外部の視点から運動システムの作動を見るアプローチ(課題主導型アプローチ)」などのアイデアを取り込みながらここまで発展してきています。
そしてこんどはこの第3世代システム論と言われるマトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシスの中から使えそうなアイデアや視点を取り込んで現在の形になっています。
オートポイエーシスでは「運動システムの境界は自らの作動で作られる」とか「システム内部の視点で作動が語られる」といったアイデアがあります。(これらについての詳しい説明はしません。興味のある方は彼らの本を読んでみてください。なかなか難しいです(^^;)
最初これらのアイデアを臨床でどう使えば良いかを悩んでいたのですが、結局、単純ですが運動システムの立場になって何が起きているかを考えてみようと思い立ちました(イヤ、実に単純(^^;))つまり「システム内部の視点で作動を説明してみよう」と考えたのです。そうすると不思議なくらい「確かにその通りだな」と腑に落ちることが沢山ありました。
たとえば起立を考えてみましょう。認知症の方に「立ってみましょう!」と勧めます。すると1-2回試して「できん、立てん」と言われます。少し試みて、立てないと分かったんだな、と納得します。しかしその患者さんが夜中に立ち上がろうとして転倒したという事故報告を翌日に聞きます。患者さんの外部から見ていると、「身体状況をよく認知していなくて無理したんだな」と思ったりします。
しかし運動システムの立場から考えるとよく知らないセラピストにいきなり「立て」と言われてもあまり立つ意味が感じられないので課題達成にはあまり熱心ではないのかもしれません。でも夜中に立ったときは立つべき必然があったので、なんとか立とうと頑張ったのだと思います。
つまり運動システムは人にとって必要な課題はなんとか達成しようとしますが、意味や価値が低ければあまり熱心ではないのです。そして必要性というのは状況に左右される訳です。つまり運動システムの立場から状況と運動システムの作動を理解することが重要です。
また外部の視点から運動システムの作動を見ているときも気がついたのですが、もし課題ができないと、課題達成に利用できそうなリソースを身の回りに探し、その利用方法であるスキルを試行錯誤します。これは内部から見てもその通りで、なんとか課題を達成しようといろいろなものを利用しようと一生懸命なのです。
そうすると、運動システムは必要な課題はなんとか達成しようとするし、そのために利用可能なリソースを探し、スキルを実際に試してみるものなのです。また達成できないときは、なんとか問題解決を図ろうとするものではないか、と気がつきました。できなければ必ず問題解決を図るのではないか。もしそれが必要な課題なら!
「人の運動システムは必要な課題を達成しようとするし、ダメなら問題解決を図ろうとする」単純ではありますが、「これが人の運動システムの基本的な作動の性質の一つではないか!」と思えてきました。
確かに腰痛が出た時に歩く必要があれば、体幹を硬くしてなんとか痛みを防ぐという問題解決を無意識に図りますよね。他にも沢山の問題解決が見られます。腓骨神経麻痺で下垂足になると膝を高く上げてつま先が引っかからないように歩きます。
そうすると・・・ 脳性運動障害では、障害後に見られる現象はすべて症状と見なされています。ジャクソンが脳性運動障害後の現象を症状として陰性徴候と陽性兆候に分類したように。でも先の仮説、「人の運動システムは問題が起きると必ず問題解決を図るのだ」と考えると全部が全部症状ではない、と考えられるのです。
「そうだ!脳性運動障害の人は一方的に症状に打ちひしがれている弱い人ではないのだ!僕たちは精一杯障害に立ち向かっている姿を見ているのではないか!」(その12に続く)
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「CAMR Facebookページ回顧録」のコーナーです。 今回は「「リハビリの夜」を読む その4」です。
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「リハビリの夜」を読む!(その4)2013/3/9 今日は、(その2)で紹介したセラピストとクライエントの関係性のあり方から、「B.運動目標をめぐって〈まなざし/まなざされる関係〉」についてです。
ストレッチが終わると、セラピストは課題となる運動を実演し、その後動作指示を出します。著者は、動作を実現するために一生懸命意識を内側に向けています。セラピストは見えない位置にいます。姿の見えない声が、あらがえない力を帯びて「もっと腰を起こして」というふうに命令します。著者から見えない位置にいるセラピストが、一方的に著者をまなざしているという図式です。
著者は「腰はどこだろうか?」と自分の内部を探りますが、うまくいきません。するとセラピストから「違う!ここだよ、ここ!」と指でつつかれます。著者の内部イメージとは異なる場所に腰はありました。それは「他者だ」と著者は言います。「背中も起こして!ここ!」矢継ぎ早に命令が出されます。こうして次々に他者が立ち現われ、身体がバラバラになっていくように感じると言います。
「これがあるべき動きである」という強固な命令とまなざしをヒリヒリと感じながら、焦れば焦るほど命令された動作から脱線していくのだそうです。
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システム論の話をしましょう(その10)
課題主導型アプローチで特に気になったのは、要素を直接改善する訓練(筋力増強訓練や可動域訓練など)や特に徒手的療法を、アメリカの課題主導型アプローチを提唱したセラピスト達が排斥したことです。現在の課題主導型アプローチの状況は知りません。が、2011年のDarrahの論文でも「課題を通して改善した可動域や筋力は、直接それらを改善する訓練と比べても違いはなく、むしろ実用であり無駄のない点では課題主導型アプローチの方が優れている」などという論文も見られました。適切な課題練習だけやっておけば良いと言うわけです。
僕が実際にシカゴで見学したのも整形外科の患者さんでした。彼は苦もなく課題を達成し、繰り返していましたし、それなりに担当セラピストも効果に手応えを感じていたようです。整形疾患では失われたリソースは局所的で、適切な選択圧をかけるとリソースやスキルにそれに応じた変化が起きるということでしょう。
ところが脳性運動障害に場面を移すと、ことはそんなに簡単にはいかないということは容易に想像がつきます。重度になればなるほどできる課題は限られてきて少々条件を変えても、できる事はあまり広がってこない。たとえば軽度の脳性運動障害者であれば適切な運動課題をすると、尖足歩行が足底をつけた歩行に変化し、安定するなどの改善が見られます。しかし重度者では変化が見られません。麻痺で筋力や柔軟性というリソースは激減し、アクティブな運動をしても変化しません。できる課題が限られているし、それらを繰り返しても大きな変化は見られないのです。
そこでたとえば上田法を実施し、体幹の可動域を改善した後では運動課題実施に明らかに変化が見られます。運動範囲や重心の移動範囲が広がり、それまで見られなかった動きが見られるようになり、新たな動作ができるようになることもあります。
また整形疾患においてもマニュアル・セラピーで痛みを改善すると、力も出やすく動きが良くなりますし、精神的な変化も大きいです。どうも徒手的療法や要素的な訓練も併用するべきではないか、利用は推奨するべきではないか、というのが一般的な臨床家の経験ではないでしょうか? 課題主導型アプローチが徒手的療法などを排斥した理由は二つあると思います。
一つは多くのセラピストが「ハンドパワー」のような非科学的な幻想を徒手的療法に抱きがちであることを、当時のシステム論を提唱したセラピスト達が忌み嫌っていたこと。これについては1991年に発行されたⅡSTEPのproceedingsに明確な記述があります。
もう一つがテーレンらの研究が「正常発達」に関するもので、健常児を対象にしたものだからです。健常児は豊富な運動のリソースを持っています。また動作を通して筋力や柔軟性のリソースを自分で増やすことができるし、自分にとって価値のあるリソースを見つけ出すスキルも十分に持っています。そんな子どもたちの運動変化を見ていくと、いざりの様な一つの運動に囚われ頑固な状態であろうと、強い選択の圧力をかければ必ず運動変化を起こし、這い這いや歩行に移行します。それは健常児がそのように変化できるような豊富なリソースと多彩なスキルの基礎を持っているからです。
そしてテーレンらの研究ではリソースの貧弱な障害児は対象ではなく、一切触れられていません。テーレンらが語っているのは健常児の運動システムの作動の様子なのです。この健常児の様子をそのまま重度の脳性運動障害達にも当てはめてしまったのではないか、と考えられます。重度の脳性運動障害では、運動に非常に重要な筋力などのリソースが多く失われています。これではいくら課題を変化させ、選択圧をかけても変わりようがないのです。初期の課題主導型アプローチでは、長所ばかりに焦点が集まり、この点に対する配慮がなかったのだと思います。(現在の状況は知りませんが^^;)リソースが貧弱な障害では要素を変化させる、あるいは新たに環境リソースを持ち込むタイプのアプローチが重要になるというのがやはり一般的な経験でしょう。
実はドイツに3回ほど上田法講習会の講師として行ったことがあります。その時もドイツに紹介された課題主導型アプローチについて、知り合ったセラピスト達が反感を持っていました。
反感のポイントは「徒手的療法を排除するのはシステム論からの必然の帰結なのか?」と言うことです。もちろん違いますよね。システム論のアプローチなら、状況を変化させることが目標となりますが、逆に手段は特定していません。徒手的療法で変化が起きるなら当然利用するべきです。
先に述べたように当時のアメリカのセラピスト達の徒手的療法に対する偏見が働いていたのだと思います。ちょうどコロナ以前に「マスクは医療職以外には効果はない」と述べていたアメリカのCDCの公式見解のように、科学的な装いをしていても、実際にはマスクに対する文化的偏見にバイアスされたのと同じではないか?同様にテーレンのような科学の徒の研究を基にしていても、個人の価値観という偏見が載っかってきたのではないか?・・・とはいえ、それが人間というものなのでしょう、注意しながら進むだけです。
さて、次回から「内部の視点から運動システムの作動を見るアプローチ(CAMR)」の紹介です。(その11に続く)
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