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今回は「CAMRの旅お休み処 シーズン2 その参」です。
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CAMRの旅お休み処 シーズン2 その参
「リソースにはスキルがつきもので、スキルは課題を通して改善する」2013/3/16
「読む!」シリーズの旅はどんどん先に進むのですが、お休み処は休んでばかり・・・。ま、休むところですから(^^;)
さて、ここで問題です。「CAMRの基本課題その2」(タイムラインへの投稿の写真)は何をしているところでしょう。
はい、踵上げですね。そう書いてありますね。訓練場面では、私は「つま先立ちしてみましょう」とも言います。どっちでもよいです。
では、これは「何のために」やっているでしょう。
従来の考え方では、足関節底屈筋群、下腿三頭筋の強化ですかね。書きながら、あってるのかいなとドキドキします。実際の訓練場面では踵が5cmくらい浮く感じですが、この写真ではモデルの方が実に美しくきっぱりとつま先立ちしてくださっているので、まさに下腿三頭筋の筋トレっぽいです。しかし、CAMRではそう見ません。下腿三頭筋の筋力というリソースをアップするための訓練、ではないのです。
答えは一つではないのですが、「狭い基底面内での重心移動と、それを行う際の特に下肢の支持性」に対する課題の一つです。形ではなく、機能で見るという例ですね。
と、もう一つ、「リソースを豊かにしてスキルを多彩にし、運動問題を解決する」と、つい説明してしまうのですが、「まずリソースアップ、次にそれを使うスキルを改善」というリソース先行ではありません。リソースを使う(改善を図る)にはスキルが必要で、リソースは、それだけを単独で取り出せるようなものとは見なしていないんですね。そしてスキルは課題を通して向上する。これは「歩けないのだから歩く練習」という課題を言っているのではなく、「下肢で身体を支持しながら狭い基底面で重心移動が起きる」課題を用意するということです。この課題設定がセラピストの重要な役割です。
うーん、上手く説明できたのかなぁ。
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今回は「CAMRの旅お休み処 シーズン2 その弐」です。
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CAMRの旅お休み処 シーズン2 その弐
「"疾患を選ばない"は、画一的アプローチを意味するか?」2013/2/26
CAMRは運動障害に対するアプローチですが、対象疾患を選びません。時々、「どの疾患の患者さんにも、同じことをするのですか?」という質問をいただきます。回答は、「はい」であり、「いいえ」です。はぐらかしてる訳ではありませぬよ。
CAMRは運動システムという視点で運動がどう起こっているかを見ますので、原因疾患毎のアプローチ法はありません。整形外科疾患であれ、脳血管疾患であれ、同じ運動をやります。歩行や立位については、写真で見ていただいたような重錘をつけての立位でのつま先立ちや膝挙上など。板跨ぎもよくやります。では、全員が全く同じことをやっているかと言えば、もちろん、そうではありません。
それぞれの課題設定には、その方の"状況"を考慮します。痛みがでやすいか、左右差があるか、身体が硬いのか、慎重派か、などなど。動きは同じでも、やり方は個別に設定します。「脳卒中だから、これ」ではありません。
疾患が異なっても、運動で問題になるものは案外シンプル(リソースという点からみると実感しやすいかも)で、共通に使えるものがいくつかあれば結構何とかなる、のかもしれませんね。
「じゃ、"多彩なスキル"って?」と言われそうですね。それはまた別の話で。
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今回は「CAMRの旅お休み処 シーズン2 その壱」です。
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CAMRの旅お休み処 シーズン2 その壱
「人によって、同じ"状況"を見ているとは限らない」2013/2/16
CAMRの旅も一巡りし、シーズン2に突入です!基本的な概念や用語については、ホームページの「人の運動変化の特徴」や「論文紹介」が充実してきましたので、少し横道にそれながら道草してみようと思います。
ホームページの論文その3に、「状況一体性」が説明されています。当アプローチは「状況」が重要な言葉ですが、これがなかなか一筋縄ではいきません。今、目の前に広がっている「状況」は、あなたの目にも私の目にも同じように映っているのでしょうか? こう書いて、「そうです」とくるわけはなく、「そうではない」ときそうですが、ここは「そうではないかもしれない」です。
ここで言う状況は、単にものの物理的配置を指すのではありません。客観的に物理的配置を述べたつもりでも、何を取り上げるかで記述者の思い(考え)から逃れることはできません。それを見る人の思いや考えを通して認識したものが、その人の捉えている状況です。これは他の人と一致していることもあれば一致しないこともある。同じ映画を見ても友達と感想が違う、と考えると当たり前のことでしょう?
一致することが良いことでも悪いことでもありませんね。一致させる必要性もない。そんなものなのだ、と思っておく、というところですね。
「だから、なんだ?」と思われるかもしれませんが、寄り道ですから・・・。
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システム論の話をしましょう(その13)
「運動システムは常に人にとって必要な課題を達成しようとするし、課題達成に問題が起きるとなんとか問題解決を図る」と前回述べました。
しかし誤解してはいけないのは、問題解決を図るといっても、問題は必ず解決されるわけではないということです。問題解決とはいっても、障害後に多くのリソースが失われた後の応急的・場当たり的な対処なのです。健常の頃のように状況に応じて適切な対応を行うことは望むべくもありません。運動システムは問題解決を図っていても、むしろ状況を悪くしてしまうことも多いのです。
たとえば外骨格系方略の問題解決を図っている人を沢山見ると、中にはどんどん硬くなって却って動きにくくなったり、あるいは過緊張のために不快や痛みに苦しんだりする人もいます。問題解決のはずがむしろ状況を悪くしているわけです。これは「偽解決」と呼ばれる状態です。(「偽解決」は短期療法などで使われるアイデアで、問題解決と思って実施したことが、逆に更に悪い状況を招いてしまうことです)
なぜ偽解決になってしまうかというと、体を硬くし始めたときには実際弛緩と比べて動きやすくなります。そうすると運動システムは上手くいった方法を繰り返してしまいます。元々障害後に沢山のリソースが失われて残ったリソースを利用し、選択肢もごく少ないので、それを繰り返さざるを得ないのです。体を硬くする元々のやり方ではなく、調整も上手くいかず、ひたすらできる事を繰り返すのです。だから体は次第に硬くなり、動きにくくなって更にそれが次の硬さの呼び水になります。たとえば硬くなった体を動かすための過剰な努力が必要になります。また硬さが痛みを生み、その痛みや不快刺激が防御的に更に硬さを生み出すわけです。つまり身体を硬くする問題解決が悪循環を生み出し、暴走してしまうのです。
また運動システムの問題解決が生み出すもう一つの問題は、「貧弱な解決」と呼ばれる状態です。これは最初に選ばれた問題解決が繰り返されて、なんとか課題は達成しているものの、その間に潜在的に筋力が回復したりしていてもそれに気がつかなくなってしまった状態です。最初の問題解決の方法が繰り返されるので、新たに回復した筋力などを使ってみる機会が失われてしまうのです。この潜在的に回復したリソースは「隠れた運動余力」と呼ばれます。もしこの「隠れた運動余力」を上手く使っていけば、運動課題達成のパフォーマンスはもっと改善するのですが、結局使われることなく、運動のパフォーマンスも改善することなく、停滞の状態になるのです。存在を気づかれなければ、ないのと一緒だからです。これは偽解決ほど悪い状態には見えませんが、長期的には患者さんにとって大きな不利となります。
脳性運動障害の患者さんは、元々の障害による弛緩麻痺(筋力リソースの消失・低下)の障害像に加えて、運動システム自体の問題解決の欠点ないしは副作用によって悪化した状態が加わってより複雑になっていることになります。
リハビリでは厳密には麻痺は治せないかもしれませんが、運動システムの作動の性質によって生み出された問題(偽解決・貧弱な解決)は障害自体ではなく、障害後の運動システムの作動の問題なのでリハビリで改善できます。そうすると「リハビリを受けて(状態)が良くなった」と喜ばれたりします。現場でも気づかずにこのアプローチをしている人がいて、「脳性運動障害に対する訓練効果」として説明しているのをよく見ます。基の障害にアプローチしているのか、障害に対する運動システムの問題解決(偽解決・貧弱な解決)にアプローチしているのか区別ができていないのです。
自分のアプローチが障害に対するものか、運動システムの作動に対するものかがはっきりするだけでも、自分のやっていることの価値や意味がより分かって仕事が面白くなります。(CAMRの講習会では様々な問題解決や偽解決・貧弱な解決の例がビデオでわかりやすく見られます。興味のある方は参加をお薦めします)(その14に続く)
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今回は「「リハビリの夜」を読む!(その6;最終回)です。
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「リハビリの夜」を読む!(その6;最終回)2013/3/23
第二章のコラム「脳性まひリハビリテーションの戦後史」の冒頭で、著者は「健常な動き」を目標としたようなリハビリについて、「少数派に過剰適応を強いる同化的な発想」と指摘しています。
「障害」という体験は、「ある社会の中で多数派とは異なる身体的条件を持った少数派が、多数派向けに作られた社会のしくみになじめないことで生じる生活上の困難のことである」とし、その責任を一方的に少数派に押しつけることはできないと述べています。しかし過去の歴史を見ると、社会を変えていくのではなく少数派に過剰適応を強いてきた、といいます。
リハビリ現場においても、著者が自分の体にとって負担の少ないやり方で動こうとするたびに、「その動き方は正しくありません!」と介入されたと言います。これも多数派にみられる「健常な動き」を、一方的に「規範的な体の動かし方」と決めつけて、少数派に無理強いするような同化的な発想だと述べています。
そういえば、セラピストの間ではよく「正常運動」という言葉が聞かれます。そこに同化的な発想は潜んでいないでしょうか? クライエントに理不尽な過剰適応を強いていないでしょうか?
今回で、「リハビリの夜」を読む!シリーズは最終回となります。これまで読んでくださった方々、どうもありがとうございました。
初回にも書きましたが、この本はセラピスト必読の書だと思います。一人でも多くの方に、熊谷先生の声に耳を傾けていただきたいと思います。また、今回は取り上げませんでしたが、ベルンシュタインの身体内協応構造から一歩進めて、身体外協応構造という興味深いアイデアも提案されています。興味を持たれた方がおられましたら、是非本書を手に取ってみてください。
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「CAMR Facebookページ回顧録」のコーナーです。
今回は「「リハビリの夜」を読む その5」です。
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「リハビリの夜」を読む!(その5)2013/3/16
今日は、(その2)で紹介したセラピストとクライエントの関係性のあり方から、「C.クライエントの体が発する信号を拾わずに介入される〈加害/被害関係〉」についてです。
指示通りに動けない著者に対して、セラピストは徐々に苛立ちを募らせてきます。そして著者を組み伏して、再びストレッチを始めます。しかし今度は最初の時と違って、思い通りの形にならない著者の身体に苛立ち、まるで粘土をこねるかのように、暴力的に押したり引っ張ったりしてきます。
ここに〈ほどきつつ拾い合う関係〉で感じられた心地良さはなく、あるのはただ、「痛み」と「怯え」と「怒り」だと言います。セラピストは著者が発するこれらの信号を拾うことなく、交渉できない他者、しかも強靭な腕力を持った他者として著者の身体に力を振るうのだそうです。
著者はABCの関係性に対応して、自身の体をそれぞれ「ほどかれる体」「まなざされる体」「見捨てられる体」と表現しています。
さて僕たちは、クライエントをまなざした事はないでしょうか? クライエントを見捨てた事はないでしょうか?
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今回は「「リハビリの夜」を読む その4」です。
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「リハビリの夜」を読む!(その4)2013/3/9
今日は、(その2)で紹介したセラピストとクライエントの関係性のあり方から、「B.運動目標をめぐって〈まなざし/まなざされる関係〉」についてです。
ストレッチが終わると、セラピストは課題となる運動を実演し、その後動作指示を出します。著者は、動作を実現するために一生懸命意識を内側に向けています。セラピストは見えない位置にいます。姿の見えない声が、あらがえない力を帯びて「もっと腰を起こして」というふうに命令します。著者から見えない位置にいるセラピストが、一方的に著者をまなざしているという図式です。
著者は「腰はどこだろうか?」と自分の内部を探りますが、うまくいきません。するとセラピストから「違う!ここだよ、ここ!」と指でつつかれます。著者の内部イメージとは異なる場所に腰はありました。それは「他者だ」と著者は言います。「背中も起こして!ここ!」矢継ぎ早に命令が出されます。こうして次々に他者が立ち現われ、身体がバラバラになっていくように感じると言います。
「これがあるべき動きである」という強固な命令とまなざしをヒリヒリと感じながら、焦れば焦るほど命令された動作から脱線していくのだそうです。
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今回は「「リハビリの夜」を読む その3」です。
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「リハビリの夜」を読む!(その3)2013/3/1
今日は、前回紹介したセラピストとクライエントの関係性のあり方から、「A.互いの動きを〈ほどきつつ拾い合う関係〉」について取り上げます。
リハビリ・キャンプに参加した時には、1回1時間半程度のセッションが、1日に3~4回行われていたそうです。まずセラピストがストレッチのような方法でクライエントの身体をほぐします。
セラピストの大きな手で触れられた瞬間、身体がこわばり硬くなるのですが、なおも力を加え続けられると、徐々に緊張がほどけていきます。あたかも熱が加えられて、氷が少しずつ溶けて水になるかのように。こうして緊張から弛緩へと移行するにつれ、セラピストとの間にあった壁のようなものが徐々に薄らいで二つの体がなじみはじめるそうです。
この時、まるで寒い冬に熱いお風呂に入った時のような心地よさがあると言います。
クライエントはセラピストの手の動きに自らを重ね合わせ、セラピストはクライエントの動きに自らを重ね合わせる。緊張がほどけていくなかで、お互いの動きを拾い合うような関係が「A.互いの動きを〈ほどきつつ拾い合う関係〉」になります。
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「CAMR Facebookページ回顧録」のコーナーです。
今回は「「リハビリの夜」を読む その2」です。
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「リハビリの夜」を読む!(その2)2013/2/23
著者の熊谷先生は小児科医です。脳性まひを持っており、幼いころからリハビリや療育を受けてきました。ご自身の体験を踏まえ、「規範的な体の動かし方」「運動というもの一般」といったことを問い直しています。
まず最初に、「第二章 トレイナーとトレイニー」から見てみたいと思います。以後、トレイナーをセラピスト、トレイニーをクライエントと置き換えて書きます。
ここでは、セラピストとクライエントの関係性のあり方が以下のように分類されています。
A.互いの動きを〈ほどきつつ拾い合う関係〉
B.運動目標をめぐって〈まなざし/まなざされる関係〉
C.クライエントの体が発する信号を拾わずに介入される〈加害/被害関係〉
次回以降で、これらについて見ていきたいと思います。
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システム論の話をしましょう!(その9)
さて、こんどはアメリカの課題主導型アプローチの実際の問題について伝えておきたいことがあります。
1991年の2月の凍てついた朝、僕はアメリカのシカゴの整形外科クリニックを訪れました。当時この最新の「課題主導型アプローチ」の現場を見学させてもらえることになったからです。
僕が見たもの。まずセラピストは患者に課題を出して、その内容を詳しく説明し、話し合います。そして患者を訓練室に残し、自分はさっさと机に引き上げ、コーヒーを飲みながら患者の様子を見ているのです。
セラピストが僕に向かって説明します。「患者に必要なのは適切な課題だ。課題達成経験を繰り返し、更に次のより困難な課題に挑んでを繰り返すことで課題達成能力や適応力が改善していく」みたいな。(英語の苦手な方なら分かると思いますが、その場の状況と聞き取れる単語から想像するしかないのです(^^;それにこのアイデア自体は本で勉強していたので)
「なぜセラピストは彼のそばを離れる?」と聞くと「彼は実生活では1人で課題達成の方法を見つけなければならない。セラピストがそばにいてセラピストの助けを借りる状況は彼の助けにならない。彼は試行錯誤を通じて1人で課題を達成する方法を身に付けた方が良いし、実際に身に付けることができる」と答えたように思います。(英語力の不足もあり、あまり正確ではありません(^^;)
「従来の徒手による可動域訓練は?」と尋ねると「課題を通して必要な身体の構成要素は改善されていく。あの方は足関節が硬いが、両手で支えながら不安定板に乗ることで痛みなく必要な可動域も筋力も改善されていく」といった説明でした。(英語力の不足もあり、以下同文(^^;)
僕はきつねにつままれたように感じました。こんなのが最新の訓練なのか?
僕は悶々としました。別にセラビストがいても問題ないじゃないかと思ったのです。自己組織化されるものなら、セラピストがいればそれなりの、いなければ自然に別のやり方が組織化されるだけ。正常歩行を勧めるセラピストのそばではできるだけ分回しを押さえようとするけれど、1人の時は盛大にぶん回し歩行をする患者さんなどがその良い例です。状況に応じて変化する訳だから。(でも英語しゃべれないから伝えられない(^^;)
あるいは親に手伝ってもらって泳ぐようになったり、自転車に乗ったりするのと同じことではないか?親に手伝ってもらったから、次から親がいないと泳げないという理屈と同じではないか。運動システムは一度泳ぐようになると、泳げなかった頃には戻れないのです。セラピストはそういうことには関係ないのでは?
それに課題を出すだけならセラビストのリソースとしての価値はあまりないのではないか、などとも感じました。セラピストならではというか、一人の人間としてももっと意味や価値があるはず・・・・でも英語しゃべれないから以下同文)
もしかしたらこれは課題主導型アプローチそのものというよりもそのセラピスト個人の問題かもと思っています。ただこれが初めての課題主導型アプローチとの出会いだったので、印象が良くなかった・・・・という、単に世間話になってしまいました(^^;)誰か実際のところを教えてくださると助かります。漠とした話で申し訳ない。次回は課題主導型アプローチの問題についてもっと根拠のある話をしますぜ(^^;(その10に続く)
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